Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

新井城

 荒井城とも書く三浦氏累代の居城。

 三浦氏は、桓武天皇から分かれた桓武平氏で、その中でも、第三皇子葛原親王の子か孫である高望王の系統という。

 この系統は、平清盛を輩出して平氏の主流となったが、三浦氏は、高望の長子である国香流の清盛とは違って庶子良文の系統で、関東で栄え、三浦氏を含む坂東八平氏と呼ばれる武士団を形作った。ただし、平氏とするのは仮冒で、三浦氏自身は元は在地豪族であったとする説もある。

 三浦氏は、天喜4年(1056)より本格的に始まる前九年の役や永保3年(1083)からの後三年の役源頼義・義家父子に従うなど、源氏と関わりが深く、平治元年(1160.1)の平治の乱でも、義澄が源義朝に加担したが、義朝の没落後は、相模では平家に近い鎌倉党の大庭景親が台頭した。治承4年(1180)の義朝の子頼朝の挙兵に、三浦党はいち早く味方しているのだが、それには、累代の源氏との関係のほか、隣合う鎌倉党との利害衝突という面もあったようだ。

 頼朝挙兵後の石橋山の合戦では、三浦党は間に合わず、一旦は居城衣笠城を落とされて義澄の父義明が城を枕に討死するのだが、安房で頼朝一行と合流し、平家との戦いで功を挙げて鎌倉幕府草創の功臣となった。

新井城址

 だが、幕府内の権力争いで、建暦3年(1213)に義澄の甥和田義盛が和田合戦で敗死し、宝治元年(1247)の宝治合戦で義澄の孫泰村を始めとする三浦一党が自刃したため、北条氏以外の他の相模や伊豆の豪族と同じく、勢力を衰えさせてしまう。

 この宝治合戦では、義明の十男佐原義連の裔で、母の前夫が北条泰時という経歴を持つ盛時が兄弟を率いて北条氏に与し、辛うじて三浦惣領と三浦介の継承を許された。この盛時の系統が以後の三浦氏となるのだが、盛時が居城し、一説には築城もしたと伝わるのがこの新井城で、以後、再興された相模三浦氏の本拠となるのである。

 その後の三浦氏は、鎌倉時代は振るわなかったが、元弘元年(1331)からの元弘の乱で時継が活躍し、建武2年(1335)の中先代の乱で時継は北条方に味方するも、子の高継が尊氏に属して功を挙げ、その子高通が相模守護に復帰した。これは、泰村以来、実に約100年振りの事である。

 だが、この高通は尊氏の弟直義と近く、観応元年(1350)に観応の擾乱が起こると、直義派として尊氏軍と戦い、直義の死後は尊氏と対立する南朝に味方した。その後、関東管領畠山国清から上杉憲顕に代わったように、鎌倉公方内でかつての直義派が復権すると、高連もそれに伴って守護に復活している。

新井城説明板

 鎌倉公方は、室町幕府の中では元々独立的な権限を与えられていた機関であったが、5代公方持氏の頃になると、将軍職継承の経緯もあって次第に幕府からの独立を志向するようになった。その一方、持氏を補佐する関東管領上杉憲実は幕府と融和的で、やがて両者は対立し、永享10年(1438)に持氏は憲実追討の兵を挙げるに至る。

 この鎌倉府内での対立に対し、幕府は当然ながら憲実を支援したため、関東諸豪族を巻き込んだ永享の乱が起こり、持氏は幕府軍に敗れ、鎌倉公方は一旦滅んでしまう。この時、三浦家当主の時高は、公方側から上杉側に転じ、以後は上杉与力として活動していることが見える。

 その後、このような情勢を背景に、子が無かった時高は、扇谷上杉持朝の次男高求と自身の姪との間に生まれた義同を養子に迎え、情勢の変化による紆余曲折を経て義同が跡を継いだ。ただし、一説には、義同が大森氏の支援を得て新井城の時高を攻め滅ぼしたともされる。

 いずれにしろ、義同は新井城の城主となり、後に城を長子義意に譲って自らは岡崎城に拠ったという。

 この頃、堀越御所の混乱を見てか、将軍義澄の指示があったのか、今川氏に在った伊勢盛時(北条早雲)が伊豆に討ち入り、更に小田原城の大森氏を追って西相模へ進出してきた。

三浦道寸の墓の近くには段郭と思しき地形がある

 早雲は当初、相模守護である扇谷上杉氏の陣営に立ったが、永正2年(1505)に扇谷上杉朝良山内上杉顕定に降伏すると、本格的に独力での相模攻略を進めるようになる。この標的となったのが東相模の雄であった三浦氏で、永正9年(1512)に義同の居城岡崎城を落とされ、次いで弟道香が城主の住吉城も陥落し、この新井城へ追い詰められてしまう。

 この新井城には引橋があり、これを引くと陸路から城内へ入れず、海側は断崖に囲まれ、さらに有力な三浦水軍が守るという堅城であった。しかし、兵糧攻めの中、援軍の扇谷上杉軍が同13年(1516)に玉縄城で北条軍に敗れると、早雲は総攻撃を開始し、三浦父子もこれが最期と城門を開いて討って出たが、奮戦空しく敗れ、三浦氏は滅んだ。この時、眼下の湾に血潮が油を流したように広がり、油壺の地名の元となったという。

 北条氏が掌握した後の新井城は、水軍基地として改修され、水軍城としての主な機能は三崎城として独立し、新井城はその詰城になったと見られている。以後、浦賀水道で対面する安房の里見氏への備えとなり、弘治2年(1556)の戦いでは落城して里見水軍に占拠され、永禄5年(1562)の合戦では城ヶ島まで侵入されながら北条勢が勝利したという。

 城自体は、分離されたとは言っても三崎城と一体的に運用されたはずで、三崎城城代の横井越前守や後に三崎城主となった北条氏規が新井城も管轄したと思われる。そして、天正10年(1590)の小田原征伐では、氏規が伊豆国韮山城に籠もったため、家老山中上野介が三崎城と共に守ったが、降伏開城し、戦後に廃城となった。

空堀を利用したと思われる東大大学院実験所の通路

 城の構造は、後世の改変が大きく、あまりよく判っていないようだ。

 現地で散策した感じでは、空堀で区画された郭が南側にあったと思われるほかは、北側が全体的に平坦な地形で、駐車場や旧油壷マリンパークの敷地となっており、これらを1つの郭とするには大きすぎるため、同程度の高さで幾つかの郭に分けられていた可能性が高い。北側の海際には、義同こと道寸の墓があるが、その周囲には小郭のような地形もあり、前述の南側、北側の平場に小郭を組み合わせた城だったのだろう。

 入口となる引橋は、東大研究施設への道が出ている辺りで、今でもガードレール越しにくびれた地形を確認することができる。また、北条氏との戦いでは、水軍込みの籠城であったことから、この引橋より城側に船溜があったはずで、それは湾状の胴網、あるいは荒井浜の両海水浴場辺りだったのだろうか。

 新井城の城址碑は、旧油壷マリンパーク駐車場の北側、道寸の墓の近くにあり、城の遺構としては、荒井浜海水浴場方向への遊歩道から東大地殻変動観測所内の空堀をはっきり確認することができる。だが、開発による消失や立入禁止などで、城の痕跡を数えるほどしか確認することができなかったのは残念だった。度重なる地震でも地形はかなり変わっているらしく、現地から当時の姿を思い浮かべるのが、なかなか難しい城である。

 

最終訪問日:2013/5/17

 

 

城跡の主要な所が開発されてしまっているので、全容が掴みにくいお城でした。

せめて立入禁止場所に入って散策できれば、ある程度は地形から想像することもできるんですけどね。

あと、油壷マリンパークが閉園になり、次の開発が始まるらしいので、発掘調査での解明がありそうで楽しみです。