Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

堀越御所

 鎌倉を目指したものの、伊豆に留まった鎌倉公方足利政知が造営した御所。ホリゴエと読み、御所跡と伝わっていることから、正確には伝堀越御所跡である。

 室町時代の関東地方は、尊氏の四男基氏から始まる鎌倉公方の差配地となっており、この伊豆国鎌倉公方の管轄国であった。しかし、鎌倉公方は、尊氏直系の子孫という血筋的な理由に加え、かなりの権限が認められていたことから、次第に自立を志向するようになっていく。これに対し、有力大名を次々と弱体化させ、幕府の基盤を確立した3代将軍義満は、自立的な鎌倉公方を掣肘し、関東への影響力を強めたいと考えるようになった。

 この対立は、双方の代を重ねるごとに深まっていき、やがて4代公方の持氏が、永享10年(1438)に幕府との融和に努めていた前関東管領上杉憲実討伐の兵を挙げたことをきっかけとして、幕府は鎌倉公方討伐令を下し、永享の乱が起こるのである。この乱以降、関東は争乱の時代となっていく。

 この永享の乱は、幕府側の勝利となり、持氏は翌年に自害へと追い込まれ、鎌倉公方は一旦滅びてしまうのだが、後に関東豪族の要望もあり、文安年間(1444-49)か宝徳元年(1449)に持氏の遺児成氏が擁立され、再び鎌倉公方が再興された。しかし、成氏を補佐する関東管領には、成氏の父と対立していた憲実の嫡子憲忠が就くなど、代替わりしたとは言え、最初から不穏な空気が漂っていたようだ。

堀越御所周辺案内図

 その後、成氏は、父の恨みを晴らすためか鎌倉府内の対立からか、享徳3年12月(1455.1)に憲忠を謀殺し、上杉討伐の軍を出すが、これは結果的に上杉氏を支援する将軍家との対立となった。この争乱は享徳の乱と呼ばれ、約28年にも渡る長い戦いとなる。

 乱の初期、将軍義政は、上杉氏を支援すべく各大名に出陣を命じ、成氏が北関東で戦っている間にその命で出陣した今川範忠が鎌倉を占拠したため、成氏はやむ無く鎌倉を諦めて古河に移った。これが古河公方の始まりとなる。

 また、義政は、成氏に対抗すべく、異母兄政知を新たな鎌倉公方として長禄2年(1458)に送り込んだ。しかし、政知自身に実権が無かったために諸豪族の協力を得られず、成氏の影響力が強い関東には入ることができないまま、山内上杉家の領国である伊豆国の堀越に留まってしまう。

 このような状況となってしまった政知が居館として造営したのが、この堀越御所であった。ただし、入国当初は国清寺を宿所としており、御所造営は寺が焼き討ちされた後の長禄4年(1460)である。

 政知が堀越に留まっている間、援軍となるはずの斯波氏の出陣が斯波家中の内訌で頓挫し、補佐役に付けられた渋川義鏡が上杉氏と対立するなど、討伐態勢を整えられないまま時は過ぎ、やがて斯波氏などの有力大名の家督争いに義政自身の後継者問題が絡まって応仁元年(1467)から応仁の乱が勃発してしまう。

堀越御所跡の全景

 こうなると幕府自体が分裂したも同然で、当然のことながら政知は放置され、文明3年(1471)には成氏方と三島で戦って敗れるなど、益々鎌倉入部は遠のいていく。そして、上杉家中でも、祖父や父が家宰を務めた重臣長尾景春が家宰に就けなかったことから叛乱を起こすなど、齟齬が出始め、ついに上杉顕定は文明10年(1478)に成氏と和睦し、幕府も同14年11月(1483.1)に成氏と和睦した。これにより、政知の存在は宙に浮いてしまい、伊豆一国のみが政知の差配する国として成氏から譲られ、堀越公方として定着したのである。

 その後の政知は、嫡子茶々丸を廃嫡して幽閉し、諫言した関東執事上杉政憲を自害させているが、世継ぎの次子潤童子と上洛して出家していた末子清晃の、母方の従兄弟が管領細川政元の養子澄之であり、これは清晃を将軍に擁立することによって、中央への影響力を確保するためだったという。

 だが、政知はそれを見ることなく延徳3年(1491)に没してしまい、その歪みは、政知の死の3ヶ月後に長子茶々丸が牢から脱し、潤童子とその母を殺害して強引に家督を継ぐという事件となって具現化する。だが、中央では政知の加担した工作が実を結び、明応2年(1493)に細川政元らが明応の政変を起こし、清晃改め義澄を11代将軍へと擁立した。

堀越御所解説板

 この義澄の将軍就任の年かその前後、伊勢盛時(北条早雲)による伊豆入りが行われ、敗れた茶々丸は御所から落ち延びるのだが、戦国時代の幕開けと言われたこの出来事も、近年では中央の情勢と連動した事件とするのが有力のようだ。つまり、義澄擁立によって黙認されていた茶々丸の扱いも変わり、将軍の兄と生母の殺害が問われるようになったという。また、一説に盛時や今川氏親の母北川殿は、義澄を補佐した政所執事伊勢貞宗の従兄弟といわれ、この繋がりから早雲に討伐令が下ったともいわれる。

 茶々丸の落去後、御所はその機能を失って廃されたが、早雲は御所近くの韮山城に本拠を置き、周辺一帯はその後も伊豆の支配拠点で在り続ける事になった。また、茶々丸自身は、関戸氏や狩野氏の支援を受けて早雲に対抗し、5年間も戦っていることから、国内外を巻き込んで相当粘り強く戦ったようだ。

 訪れた時の御所跡は、残念ながら説明板がある以外は広い平地があるのみだったが、今後は発掘調査が行われ、いずれは史跡公園として整備されるらしい。御所跡の近くには、北条政子産湯の井戸や北条氏邸跡などもあるため、付近は平安時代末期から戦国時代の黎明期までの史跡が集中しており、御所だけでなく、それらも一体化して史跡公園になると思われ、整備が終わった暁には、もう1度訪れてみたい場所である。

 

最終訪問日:2013/5/19

 

 

自分は、願成就院にバイクを止めて周囲を散策したんですが、堀越御所へ行くなら、そのすぐ北の光照寺の横に立派な無料駐車場が整備されているので、こちらがより近かったですね。

ただ、鎌倉殿の13人の影響で、周辺一帯は堀越御所よりも、鎌倉時代の北条氏がスポットとして推されているのかも知れませんが。