Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

大井城

 一時は佐久郡の大半を支配した、岩村田大井氏の居城。岩村田館とも呼ぶ。

 大井氏は、小笠原氏の庶流で、佐久郡大井荘を本貫として勢力を拡げた豪族だが、大井荘の開発領主ではなく、承久3年(1221)の承久の乱の功で新たに入部した新補地頭である。その入部の際、この大井城が築かれたという。

 八条院領だった大井荘へ地頭として入部したのは、小笠原氏の祖である長清の七男朝光で、大井氏を称し、朝光の系統が大井氏として続いていく。ちなみに、朝光の兄時長は伴野荘の地頭となって伴野氏を名乗り、伴野氏は弘安8年(1285)の霜月騒動で一時は没落するものの、室町時代に再興し、両者は後に佐久郡を巡って争うこととなる。

 南北朝時代の大井朝行は、惣領の小笠原氏に従って北朝方として活動したことが見え、建武政権から離脱した尊氏の討伐へと向かう討伐軍1万余りを、建武2年(1335)にこの大井城で迎え討ったという。しかし、衆寡敵せず、数日の交戦の後に落城した。

王城公園の縁部に残る土塁の痕跡

 その後、北朝方の巻き返しによって大井氏や大井城は再興され、信濃守護である小笠原氏の守護代も務め、在京する小笠原氏に代わって在地で勢力を拡大していく。永享8年(1436)には、幕府の命で芦田氏を降し、長窪に進出して長窪城を築いた。その頃、鎌倉公方で6代将軍の座をかつて狙っていた足利持氏と、6代将軍義教との間は険悪となっており、これらの勢力拡大は、その大きな情勢が佐久郡で表出した結果のようだ。

 そして、永享10年(1438)に、持氏と、関東管領上杉憲実及び憲実を後援する将軍義教との決裂は決定的となり、永享の乱が勃発しているが、当時の大井当主持光は、持氏に近しい立場であったようで、翌年に持氏が自刃に追い込まれた後、その遺児のひとり永寿王丸(万寿王丸)を匿っている。

 永享12年(1440)に、結城氏朝が同じく遺児である春王丸と安王丸を擁して挙兵し、結城合戦が起こると、持光は結城へ永寿王丸を送り届けたとされるが、結城城落城の際に永寿王丸は捕らえられておらず、どうも合戦のどこかで永寿王丸は落去したようだ。また、持光自らも軍を率いて参陣しようとしたが、隣国上野を領国とする上杉軍に阻まれ、これは果たせなかったという。

防御力の要であった石並城の湯川沿いの断崖

 その後、永寿王丸の所在には京都と信濃の説があるが、再び持光に匿われたという説が有力のようだ。この永寿王丸は、結城合戦終結と同年の嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で将軍義教が謀殺された後、鎌倉公方の再興運動が起こり、数年後に鎌倉へと帰還し、文安4年(1447)あるいは宝徳元年(1449)に鎌倉公方に就任した成氏となる。

 その後の持光は、文安3年(1446)に佐久平賀の乱を鎮圧して平賀氏を滅ぼし、平賀郷を支配下に収め、また、成氏との強固な繋がりによって上野や武蔵にも所領を得、最盛期には6万貫を領し、大井城下の民家は6千軒を数え、在京と在国で計7千騎を率いたという。

 持光の跡は政光が継いだが、享徳3年(1454)から始まる享徳の乱で成氏が古河に移って古河公方となったため、関東の所領の維持が難しくなり、次第に勢力に陰りがでるようになり、「四鄰譚薮」には、応仁元年(1467)に村上氏に敗れ、甲斐に逃れたと記されている。

最近まで農地であったと思われる黒岩城にも土塁の痕跡がある

 その後、政光は大井に復帰したが、跡を継いだ子政朝は、文明11年(1479)8月に伴野氏との合戦で譜代衆の多くが討死した上に生け捕られてしまい、和睦によって大井城には復帰できたものの、大きく勢力を後退させてしまう。そして、政朝の早世によって跡を継いだ弟の安房丸は、文明16年(1484)に村上政清によって攻撃され、小諸へと落ち延び、大井宗家は没落した。

 その後、大井城に入って惣領の地位を継いだのは、安房丸の子とも武田系大井氏の長窪大井氏の系統ともいわれる大井玄慶である。玄慶は、大井城と大井氏の復興を進めたが、恐らくは村上氏の影響下にあり、従属的な立場になったのだろう。

 玄慶の跡は養子である康光が継いだが、康光こそが武田系大井氏から入嗣したという説もあり、血統ははっきりしない。この頃になると、相変わらず伴野氏との争いが続いていたが、次第に武田氏と結ぶ伴野氏対村上氏と結ぶ大井氏という構図となり、代理戦争の様相を呈した。後には、大井氏は上野の山内上杉氏とも結んだようで、武田氏対山内上杉氏の様相ともなっている。

王城公園に残る王城のケヤキ

 その後、康光の子貞隆が天文12年(1543)に大井城を落とされて長窪城に追われたとされ、その後は武田氏の城として機能し、後には大井一門の大井雅楽助が城主を務めたようだ。しかし、武田信玄は内山城を佐久の拠点として重要視したため、大井城は史料にあまり登場せず、高白斎記の天文20年(1551)8月に岩村の鍬立とある程度で、詳細は知れない。

 天正10年(1582)の武田氏滅亡後、甲斐や信濃の武田旧領は、織田家臣に与えられたものの、その直後に本能寺の変が起こり、武田旧臣の蜂起などもあって無主の地と化す。これを好機とばかり狙ったのが徳川氏と北条氏で、天正壬午の乱という争奪戦となるのだが、徳川氏に与した依田信蕃が佐久郡や小県郡を押さえ、雅楽助も信蕃に城を明け渡した。

 徳川氏の城となった後は、誰が城主であったかなどの詳細は不明である。廃城時期も不明だが、内山城が信蕃による攻略後しばらくして廃城になっていることから、大井城も同時期に廃城になったのではないだろうか。遅くとも、家康が関東に移封になった天正18年(1590)には廃城になったかと思われる。

大井城解説板

 大井城は、北東から南西に流れる湯川が大きく湾曲する部分の西岸にある、比高10m前後の丘陵に築かれ、北から石並城、王城、黒岩城と呼ばれる3つの独立的な削平地を持ち、これらをまとめて大井城と呼ぶ。この内、最初の城域は石並城のみであったようだが、時代を経るにしたがって南へと拡張されたようだ。それぞれの郭は、湯川に面した部分は断崖に近く、互いの間も天然地形なのか人工的な空堀なのか、非常に深い堀によって画されていたようだ。

 現在の城は、王城の部分が王城公園として公園化されているが、石並城は住宅地、黒岩城は農地となっており、城の痕跡はあまり残っていない。ざっと散策した限りでは、王城公園の端の一部に土居の痕跡らしき僅かな盛り上がりがあり、黒岩城の高台の端にも同様の痕跡があるほか、石並城の湯川沿いに防御の要だったはずの断崖が残っている程度である。ただ、周辺は川沿いというのもあって、地形を探りながら散策すると、大まかな城の様子を捉えやすい城と言えるだろうか。

 

最終訪問日:2019/5/12

 

 

近くの佐久ホテルに宿泊したので、朝一番で散策し、早朝の引き締まった空気が気持ち良かったです。

城跡としては、痕跡は僅かなんですが、地形から当時の城の様子が想像できるお城で、散策が愉しかったですね。

切り立った柔そうな崖と、高台上の広い削平地から、南九州のシラス台地の城が連想される城でもありました。