Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

河村城

 築城時期は古く、平安時代末期に河村秀高によって築かれたという。

 秀高は、藤原秀郷の後裔波多野義通の弟であるが、この河村郷を領したことから地名を名字にしたとされる。だが、河村郷は平安時代には史料に見られないことから、「駿河記」などから、秀高は遠江国河村荘を開発して河村を称したという説もあるようだ。

 この説に従えば、秀高が築城者ではなく、その嫡男義秀が本家の波多野氏に遠江から招かれて西端の守備を任され、河村郷を興し、河村城を築いたということになる。

 いずれにせよ、義秀の代には河村城に在ったのは間違いなさそうだ。ただ、その頃の河村城は詰城であり、簡素な城であったと思われる。

 義秀は、治承4年(1180)の頼朝挙兵の際に平家軍に属して頼朝と石橋山で戦っているが、これは惣領波多野義常が頼朝に加勢しなかったことと関連があると思われ、後に捕らえられて斬首されるところを大庭景能に預けられた。

 その後、建久元年(1190)の鶴岡八幡宮放生会流鏑馬の妙技を見せたことで頼朝に許され、ようやく本領に復帰している。以降、河村氏は御家人としてこの地で続いた。

河村城の本丸にあたる本城郭に建つ城址

 鎌倉幕府滅亡時の河村氏は、鎌倉に進撃する新田義貞軍に合流していることが見え、南北朝時代には、河村秀国や秀経の名が出てくる。

 その頃、北朝方では、尊氏と直義の兄弟に対立が起こり、正平6年(1351)には尊氏が南朝に降伏して直義追討の綸旨を得るという正平一統が成っていた。だが、翌年に直義が降伏すると、早くも尊氏排除の機運が高まり、南朝方は尊氏の征夷大将軍職を剥奪し、新田義貞の次男義興や三男ながら嫡男の義宗、その従兄弟脇屋義治北条時行らが挙兵して鎌倉へと進撃する。これに対し、尊氏は鎌倉を占拠されたものの武蔵各地で南朝方主力を撃退した。

 これにより、鎌倉に入っていた南朝方は劣勢を悟って鎌倉から落ち、その際に時行は捕らえられてしまうのだが、義興、義治はこの河村城に籠城し、関東管領畠山国清の攻撃を同9年(1354)春までの2年間に渡って持ち堪えたという。そして、この河村城で共に籠城したのが、秀国と秀経であった。

河村城蔵郭と近藤郭の間の堀切は城内最大で畝が残っていた

 この籠城前後の河村氏の動向ははっきりせず、また相模の各豪族も対応がまちまちで、最初から南朝方だったのか、上杉顕憲らのように直義に近かったが故に尊氏に対抗して新田陣営に在ったのか、その辺りはよく分からなかったが、城下の南原の戦いに敗北して城が落ち、河村一族が滅んでしまったのは間違いないようだ。こうして城は国清の持ち城となり、後には関東管領職を継承した上杉氏の城となった。

 その後、時代が下った永享年間(1429-41)に、再び河村城が史料に登場する。

 この頃、東国を支配する鎌倉府の鎌倉公方足利持氏は、室町幕府から独立を志向し、幕府と融和的であった関東管領上杉憲実と対立していた。両者の対立が極まり、憲実は身の安全を図って永享10年(1438)8月に鎌倉から領国へと出奔するのだが、その際に家臣長尾景春と大石景仲が勧めたのが、この河村城であったという。

 結果的には、憲実は本拠である上野国平井城へと下り、同年に持氏は憲実追討を命じて永享の乱が勃発するが、憲実を支援した幕府軍に持氏は破れ、鎌倉公方は一旦は滅んだ。

河村城小郭は綺麗な三角形をしていた

 この過程で、上杉家の城であった河村城は当然ながら攻撃され、箱根を中心に駿東から伊豆、西相模にかけて勢力を築いていた大森憲頼と思われる大森伊豆守が、持氏軍の先兵として攻略している。

 大森氏は、持氏に味方しながら、乱後も勢力は保たれ、後には小田原まで勢力を伸ばした。だが、鎌倉公方が持氏の遺児成氏によって再興された後、再び公方家と上杉氏との対立である享徳の乱が勃発し、享徳4年(1455)に成氏が古河へ移って古河公方となると、地理的に遠い相模は上杉氏の勢力下となり、大森氏は上杉家臣に転じている。

 大森氏は、上杉家中でも存在感を示し、次第にその重鎮へとなっていったが、上杉氏内部の山内家と扇谷家の争いに乗じて隣国伊豆で伊勢盛時(北条早雲)が台頭すると、大森氏は早雲の小田原進出で没落し、河村城もそれに伴って北条氏の城となったようだ。

 ただ、講談で語られる明応4年(1495)の早雲の謀略による小田原城奪取というのは史実ではなく、翌年に両陣営が共に籠城していると見られる史料などから、早雲が小田原城を奪ったのは明応5年(1496)以降とするのが有力という。

河村城蔵郭

 北条氏領有後は、駿河と甲斐の国境を抑える城として機能し、元亀年間(1570-73)には改修が施されている。これは、武田信玄の永禄11年(1568)からの駿河侵攻に伴う両家の対立の為だろう。実際、永禄12年(1569)に小田原城が包囲されているほか、翌年には深沢城での攻防戦もあり、両城に近い河村城でも争奪の戦いがあった可能性はある。

 そして、その後も領境の城として機能したが、天正18年(1590)の小田原征伐に伴って落城し、廃城になったようだ。

 河村城の地勢は、南は酒匂川、北に旧宮瀬川によって分断された独立丘陵にあり、地形的には山上で完結している山城なのだが、各郭の標高がほぼ同じで標高差を使った防御要素が少なく、しかもかなり大きな削平部分もあることから、平山城の区分としてもおかしくはない。簡素な山城から出発し、中世的な山城を経て、北条氏による改修で近世的な平山城的山城になったのだろう。

 縄張としては、2つの頂を鞍部で繋いだ形で、西側の頂に本城郭を置き、それを中心として北に馬出郭、西に一段下がって水郭や西郭を配置し、西郭からの尾根筋に北郭があった。また、本城郭の北側には三角形の小郭を挟んで茶臼郭があり、それぞれの間の畝堀が非常によく残っている。

河村城縄張図

 この西側部分は、中世的な高低差を用いた部分があることから、初期の城はこの本城郭を中心として構成され、大手は北にあったのではないだろうか。また、鞍部には蔵郭があり、その東端は城中最大の堀切となっているが、かつては城郭と城外を区切る堀切だったのかもしれない。

 その先の東側の頂は、工事中でしっかり散策できなかったが、近世的な平場の多い部分で、後に付け足された郭のように思え、最終的にはこちら方向に大手が置かれたようだ。ただ、南朝の主力軍のひとつが籠もったり、憲実も落ち延び先として勧められるなど、当時から堅城として名が通っており、その頃から規模が大きかった可能性も考えられる。

 現在残っている遺構は非常に鮮明で、公園としても整備が行き届いており、かなり記憶に残る城だった。特に北条系城郭でよく見られる畝堀が何ヶ所もはっきりと確認でき、各郭の連携や構造も解りやすく、散策していて非常に愉しい城である。

河村城茶臼郭と小郭の間の畝堀

 

最終訪問日:2013/5/18

 

 

訪れた時は、まだ大庭郭近辺が整備工事中だったんですが、整備が完了した暁には、相当はっきりと解り易い史跡公園になっているんでしょうね。

城好きの人はもちろん、城好きじゃなくても、城郭の姿というのを直感的に感じられるお勧めの城です。