Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

三浦道寸墓

 三浦道寸は、諱を義同といい、三浦氏の実質的な最後の当主である。

 三浦氏は、桓武天皇の第三皇子葛原親王の子か孫である高望王の系統で、一般に桓武平氏と呼ばれ、高望の庶子良文から始まったことから特に良文流という。この系統は関東で栄え、三浦氏を含む坂東八平氏と呼ばれる武士団を形作った。しかし、三浦氏自身は元は在地豪族で、平氏とするのは仮冒という説もある。

 三浦氏は、源八幡太郎義家の時代から源氏と繋がりがあり、後には平氏の家人となった鎌倉党の大庭氏に圧迫されるが、頼朝の挙兵時から一貫して味方し、鎌倉幕府草創の功臣となった。だが、幕府内の権力争いで、建暦3年(1213)に三浦一門の和田義盛が和田合戦で敗死し、宝治元年(1247)の宝治合戦で三浦一党が自刃したため、勢力を衰えさせてしまう。

 この時、同じく三浦党であった佐原義連の系統で、その孫の盛時が北条氏に味方し、辛うじて戦後に三浦惣領と三浦介の継承を許された。この盛時の系統が以後の三浦氏で、最初の三浦氏と区別して相模三浦氏と呼ぶ。

 道寸は、宝徳3年(1451)頃に父上杉高求と大森氏頼の娘との間に生まれた。この頃の三浦氏は、扇谷上杉家臣として当主時高が活動しており、時高から見て道寸は姪の子である。また、父高求は、高時の主君扇谷上杉持朝の次男であった。

 道寸は、やがて時高の養子として迎えられるのだが、これには2つの説があるという。

 1つ目の説は、最初は父高求が養子として家督を継いだものの、扇谷上杉家の内紛に乗じて上杉家を継ごうとしたために上杉姓に復し、道寸が時高の養子となった説で、2つ目は、道寸が三浦の血を継承する人間として、直接時高の養子になった説である。

 また、この後、時高と道寸は不和となり、道寸は一時三浦家を追われるのだが、これにも、時高に実子高教が生まれたために不和となって出奔したという説と、扇谷上杉家当主の定正に忠誠を誓う時高が、高求の動きに激怒して父子共々追放したという説があるようだ。

三浦道寸墓

 ただ、出奔説はもちろんのこと、追放説が本当だとしても、時高に実子高教が生まれている以上、根底にあるのは家督争いだったのだろう。

 三浦家を出た後、道寸は一時出家したようで、この時に初めて道寸を名乗っているのだが、経緯はどうあれ、やがて明応3年(1494)には三浦家家督を継承することになる。

 この家督継承の経緯にも諸説があり、一般には道寸派の三浦家臣と大森氏の後援を得て新井城に時高父子を滅ぼしたとされているが、大森氏は氏頼の病没直後で外に向ける余力が無かったため、道寸が時高没後の混乱に乗じて大規模な戦闘を行わず家督を奪い取ったという説もあるようだ。

 伊勢盛時(北条早雲)の主敵だったためか、家督継承までの道寸には様々な話が伝わっているが、大筋の事跡は判っているものの、詳細は定説を見ないというのが現状である。

 家督相続後の道寸は、扇谷上杉家臣として行動し、小田原城に籠もった大森氏や早雲の弟伊勢弥次郎の軍勢を救援していることが見え、この籠城戦があったと見られる明応5年頃には後の敵である早雲とは共闘関係にあったようだ。

 この共闘関係は、永正元年(1504)の立河原の合戦の頃まで続いているが、翌年に扇谷上杉家当主で定正の甥朝良が山内上杉家に降伏すると、早雲は独立色を強めて両上杉家と対立し、必然的に義同とも対立することになる。そして、永正6年(1509)から翌年にかけて、早雲は大規模な攻勢を仕掛けるのだが、扇谷上杉軍に阻まれ、逆に劣勢に陥ったようだ。この流れの中で、道寸は早雲が修復した鎌倉東部の住吉城を奪い、小田原城にも攻撃を仕掛けているが、反対に岡崎城を攻められてもいる。

 道寸はこの頃、嫡子義意に家督を譲り、岡崎城を整備して本拠にしていたようだ。義父時高の頃に奪った岡崎城へ道寸が移った時期ははっきりしないのだが、新井城に置いた義意が明応5年(1496)生まれで、その年齢や岡崎城を巡る情勢の逼迫という背景を考えると、やはり義意へ家督譲った時期に城も移ったと考えるのが妥当だろうか。

三浦道寸墓の説明板

 この後、劣勢となった早雲が扇谷上杉家と和睦したため、相模にも一時的に平穏が訪れた。しかし、2年後の永正9年(1512)には、早雲は再び三浦氏に対して大規模な攻勢を仕掛け、道寸は、岡崎城を落とされて住吉城に退き、この城で鎌倉合戦と呼ばれる幾度かの衝突を繰り返した後、やがて住吉城も支えられなくなって新井城へと退いている。

 新井城は、周囲を海に囲まれた断崖上の城であり、唯一の陸路である大手口の引橋を引いてしまえば難攻不落となるため、さすがの早雲も攻略には手間取り、扇谷上杉軍の援軍対策と糧道を絶つために玉縄城を築いて兵糧攻めを行った。そして、扇谷上杉軍の援軍として来援した道寸の娘婿太田資康の軍を玉縄城付近で破り、資康を討ち取って新井城を孤立化させたのである。

 道寸は、新井城で尚も粘り強く3年に渡って北条軍の攻撃を凌いだ。しかし、永正13年(1516)7月11日の北条軍の総攻撃で落城を悟り、これが最期と城門を開いて打って出た。死兵となった三浦軍は北条軍を打ち負かしたが、多勢に無勢、やがて道寸は城に戻り、切腹したという。また、道寸の嫡子で、85人力という怪力を誇った義意も、散々に北条軍を蹂躙した後、最期は討ち取られたとも自ら首を掻き切ったともいい、これによって名門相模三浦氏は滅んだ。

 ただ、次男の時綱だけは、城を落ち延びて安房へと向かい、正木郷を本拠として後の正木時通になったともいう。時綱に関しては伝説に近い不明確な話ではあるが、道寸も、その子らも、伝承や逸話の多い武将と言えるだろうか。

 道寸の墓は、三崎へと向かう県道26号線の油つぼ入口の交差点から油壺方向へ折れ、真っ直ぐ突き当たった所の右手にある。駐車場北側に新井城址碑があり、その付近から出ている、胴網海水浴場へ向かう遊歩道を少し下ると、右手に見えるのが道寸の墓だ。

 周辺には段郭の小郭や堀切のような地形があり、新井城の痕跡が残っている。墓の回りの石囲いはやや傾いていたが、墓は綺麗で、花も供えられていた。今でも道寸祭りという三浦一族の供養祭が執り行われ、笠懸などが披露されており、道寸の墓も地元の方が大事に供養しているのだろう。

 

最終訪問日:2013/5/17

 

 

北条早雲絡みの小説や軍記物を見ると、なかなかギラギラしたアクの強い武将として描かれている道寸ですが、お墓はひっそりとしていました。

この三浦半島を本拠として、遠く離れた伊勢原岡崎城まで進出していたんですから、相当有能だったんでしょうね。

隠れた名将だったと思います。