Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

江戸古城

江戸古城の痕跡が発掘された近代美術館付近から城域だった江戸城本丸と二ノ丸方向

 武蔵国豊島郡江戸は、平安時代から坂東八平氏の一流で桓武平氏系良文流の秩父氏の勢力圏であり、秩父重綱の子重継が地名から江戸氏を称した。その子重長は、鎌倉幕府御家人となり、室町時代以降も主を変えながら生き残るのだが、この江戸氏が現在の江戸城の付近とされる桜田の高台に居館を築いていたと伝わる。ただ、これは裏付けがある訳ではなく、異説もあるように実際のところは定かではない。

 明確な江戸城の創始としては、室町時代に東国を治めた鎌倉府のNo.2にあたる関東管領上杉氏の一族、扇谷上杉氏の家宰太田道灌資長によるという。

 江戸城が築かれた当時は、鎌倉から古河に移った古河公方足利氏と上杉一族の対立の真っ只中で、品川を本拠にしていた道灌が、対足利氏の拠点として勢力の境目であった利根川沿いに睨みを利かすため、父資清(道真)と協力して築城したとされる。

 築城年は、長禄元年(1457)といわれ、前年の康正2年(1456)から同様に岩槻城河越城を築いており、三角形を成す三城の連携で勢力境を守る意図があったという。ただ、岩槻城に関しては、現在は文明10年(1478)に足利方の成田氏によって築城されたという説が有力となっているほか、河越城は道真の築城という説が有力で、江戸城を含む三城の築城は、実際には、河越城江戸城のみが、扇谷上杉家の方針として分担して築城されたと見るのが正しいのだろう。

 道灌は、品川の居館から江戸城に本拠を移し、この城で兵を鍛錬したとされ、集団戦法である道灌独自の足軽軍法を確立したとされるが、足軽軍法が実際にどのようなものであったかは判っていない。また、この頃の城は、子城と呼ばれる本丸と、中城、及び外城の連郭式三郭構成であったとされるが、これは道灌がかりと呼ばれる特徴的な縄張であり、城地とする舌状台地の下の川や深田を水堀に転用するという、道灌が好んだ手法も用いられている。

 その後、文明8年(1476)の長尾景春の乱で、主君上杉定正とその宗家山内上杉顕定が五十子で敗れる中、道灌は景春方国人の諸城を東奔西走して潰し回り、乱の鎮圧に多大な功績を残した。しかし、これが災いして定正に疎まれたのか、はたまた道灌の影響力拡大を危険視する顕定の謀略であったのか、同18年(1486)に扇谷上杉氏の居館糟屋館にて暗殺されてしまっている。

 この後、道灌の本拠であった江戸城は、嫡子資康が継ぐが、間もなく定正が資康を江戸城から追い、城代として曽我豊後守が見えるなど、20年近くの間は扇谷上杉氏の属城となっていた。資康が定正の跡を継いだ甥朝良に帰参した後、ようやく城に復帰できたのは、永正2年(1505)頃のことである。

 しかし、それも束の間、同10年(1513)に伊勢盛時こと北条早雲が資康の舅三浦義同を攻撃した際、その援軍に向かって討死したという。また、一説では、資康も父と同じく暗殺されたともいわれる。

 この後、資康死没に伴うものか、江戸城は扇谷上杉氏が掌握しており、大永4年(1524)に資康の次男資高が早雲の子氏綱に内応することによって城が攻撃を受け、扇谷上杉家当主となっていた朝良の甥朝興が高輪原で迎え討つも、敗れて河越城へ退き、北条氏の城となった。

 北条氏の当主氏綱は、本丸と二ノ丸に城代として富永政家、遠山直景を置き、元の江戸城主であった資高を香月亭に置いたが、政家が伊豆以来、直景が関東下向以来の古参であることを見ると、氏綱の江戸城に対する重視具合が解るだろうか。また、旧城主ながらやや疎外された感のある資高に対しては、氏綱の娘を室として一門に迎えており、領地の直轄化と国衆の家臣化を同時に進めた形跡が窺える。

 ただ、太田氏に関しては、資高の子康資が北条氏から離反しており、曽祖父道灌の城ながら城主になれなかった事が不満だったともいわれ、最終的には家臣化に失敗した。

 その後、江戸城の城代としては、一門である北条綱成の子氏秀の名も見えており、上杉謙信の遠征などもあって、北方との連携拠点としてより重要視されたようだ。氏秀没後は、その子乙松丸が一時的に城代を継いだが、後には氏直に家督を譲った氏政が自ら総覧しており、それも重要さの裏付けと言えるだろうか。

 天正18年(1590)の小田原の役の際には、氏政は小田原城、富永政家は韮山城におり、江戸城には遠山政景の弟川村秀重が籠もっていたともいわれるが、主力不在だったことから、大きな戦闘も無く開城したと見られる。

 小田原の役後、関東に入封した家康によって江戸城は近世城郭に大きく生まれ変わって行くのだが、道灌時代の江戸城は、現在の本丸から二ノ丸、地続きの北ノ丸に掛けてが城域であったようだ。

 当時は、南に日比谷入江を控え、眼下に神田川の前身である平川を天然の堀とした城で、東方向に対して防御を固める城であったと言えるだろう。ちなみに、当時の城の痕跡は、国立近代美術館付近の発掘調査の際に確認されている。

 徳川時代以前の江戸城やその城下は、家康入部の際にかなり老朽化が進んでいたような文書が残されており、江戸自体も片田舎というような印象になっているが、実際は、江戸衆と呼ばれる軍団が編成され、隠退した元当主が城主となっていた時代もあり、城がそれなりの修繕を受けていたのは間違いないだろう。また、常駐部隊も存在した上、利根川や品川湊の水運があり、相模と上総方面の中継地でもあることから、交通上も申し分無い条件で、相応の消費社会、つまり大きな城下町があったと考えるのが適当ではないだろうか。

 もちろん、大名の本拠城に比べれば、かなり見劣りするのは間違いないと思われるが、この辺り、江戸が徳川家によって大きく発展したという、徳川史観の影が見え隠れするのは気のせいではないだろう。

 

最終訪問日:2016/7/28

 

 

家康の頃の江戸城もそうですが、近代に入ってからの開発もあって、さすがに江戸古城の痕跡は無かったですね。

代官通りは急勾配になっていますが、これが当時の地形の名残と思うと、少し感慨深いです。