Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

江戸城

 武蔵国豊島郡江戸には、平安時代から桓武平氏秩父氏の一流である江戸氏がおり、江戸城の付近に居館を築いていたと伝わる。明確な江戸城の創始としては、室町時代に東国を治めた鎌倉府のNo.2にあたる関東管領上杉氏の一族、扇谷上杉氏の家宰太田道灌資長が長禄元年(1457)に築いたのが最初という。

 その後、道灌が主君である上杉定正に謀殺され、江戸城の主は上杉氏や道灌の子資康などに替わり、大永4年(1524)に資康の次男資高が北条氏綱に内応することによって北条氏の城となった。以降、北条時代は家臣の富永氏や遠山氏、一門の北条氏秀が城代を務め、後には氏直に家督を譲った氏政が自ら総覧したという。

皇居の象徴である二重橋

天守が建てられなかった江戸城天守

 天正18年(1590)の小田原の役後、降伏した北条氏に変わって家康が江戸城へ入部し、その本拠として大規模な拡張工事が施されることによって近世江戸城が始まるのだが、江戸城を本拠としたのは秀吉の助言であったとも伝わる。西と南の違いはあれど、間近に海港を擁し、城のある丘陵地の後背にあたる湿地や平地は広大で、城下町経営を見据えた条件の面では大坂城と近い。

 伝えられる話では、家康入部時の城は荒れ果て、人家も100軒程度だったとされているが、北条時代は有力な支城であり、人家はともかく城はある程度の体裁を整えていたのではないだろうか。この辺り、家康の創業神話の影が見える。

 家康の改修工事は、現在の北ノ丸から本丸にかけて存在した旧本丸、二ノ丸に付随する空堀を埋めて主各部の役割を変更し、本丸の北にあった田安明神の境内地を北ノ丸として取り込み、本丸の西南に西ノ丸、さらにその西に吹上を造成した。そして、防備と物流を兼ねる水路として、平川と繋ぐ道三堀も掘られている。ただし、これは豊臣政権下の一大名としての工事であった。

江戸城大手門

江戸城桔梗門の桝形

 天下の首府としての改修は、家康が征夷大将軍に任ぜられた慶長8年(1603)からで、日比谷入江の埋立と外堀の開削に取り掛かり、同11年(1606)からは各大名に工事を分担する天下普請で工事が進められ、各主郭部の石垣が構築されたほか、最初の天守も翌同12年(1607)に完成している。

 その後は、大坂の陣の直前の慶長19年(1614)から第2次、元和6年(1620)から第3次、寛永5年(1628)から第4次、同13年(1636)から第5次と、断続的に天下普請が行われ、万治3年(1660)まで本丸や二ノ丸の拡張や石垣構築、屋敷地拡張、堀の拡幅が図られた。

 この間、元和9年(1623)に2棟目、寛永15年(1638)に3棟目の天守が築かれたが、明暦3年(1657)の大火で焼失してしまった後は、天守台が構築されたものの天守自体は再建されず、三層の富士見櫓がその代わりとなっている。これに関連し、全国の城で三層を超える櫓が建造されなくなったの、富士見櫓に遠慮したためともいう。

江戸城巽櫓

皇居への入口となる眼鏡橋と正門

 ちなみに、1棟目と2棟目はそれぞれ2代秀忠、3代家光によって築き直されているが、その理由は、本丸や御殿の拡張のためとされる場合が多いものの、正確には判っていない。また、3棟目の天守は図面が残っているが、1棟目と2棟目の天守は詳細不明で、層数にすら諸説がある。

 その後、歴代将軍の居城として幕末に至るわけだが、最後の将軍となる15代慶喜は、情勢の紛糾という事情もあって在城せず、京の二条城でそのほとんどの在職期間を過ごした。

 慶応3年(1867)10月に大政が奉還されると、年明け早々大坂から退去した慶喜が入城したが、早くも2月12日には慶喜寛永寺へ移って無主の城となり、3月13日からの勝海舟西郷隆盛の交渉経て4月4日に無血開城されることとなる。そして翌年には、東京奠都が実施されて天皇陛下の住まいとなったため、名前が、東京城、皇城、宮城と順次改称され、戦後は皇居と呼ばれるようになった。

江戸城中之門跡

江戸城百人番所

 現在の江戸城は、西ノ丸が宮内庁や宮殿、吹上が御苑の用地として使用されており、本丸、二ノ丸、そして三ノ丸の一部が皇居東御苑として一般に公開されている。皇居の安全のため、入退城が厳しく管理されてはいるが、入城してしまえば見学自体は他の城と変わりない。

 遺構自体は、堀や石垣の保存状態は良いものの、いくつかの櫓と城門以外の城郭建築物は無いため、城跡の都市公園と似たような印象ではあるが、本丸や二ノ丸の天下普請の石垣は、さすがに圧するような威厳があった。特に天守石垣は、輪を掛けて異様な存在感があり、見慣れないほどの規模だったからなのか、逆に城郭遺構としては違和感を持つほどで、その規模感には近世城の極みが感じられる。

江戸城北詰橋門付近から三日月濠

江戸城北詰橋門付近から平川濠

 

最終訪問日:2016/7/28

 

 

個人的な印象としては、訪問客の半分以上が外国人だったのが妙に情景として頭に残りました。

単純に見て、城跡としては、姫路城などのほうが日本らしさを感じられるんじゃないだろうかと、やや心配になりましたね。

見学できる部分は、石垣と堀がほとんどですし。

城好きにとっては、やたら巨大な天守台や延々と続く高石垣と水堀など、テンションが上がる城なんですけどね。