Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

駿府城

 駿府城の前身は、駿河守護を代々務めた今川氏の居館で、詳細な位置は不明ながら駿府城三ノ丸付近にあったと伝わる。

 この居館は、今川館とも駿府館とも呼ばれ、今川範政が応永18年(1411)に花倉から念願の駿府入部を果たして築いたものだが、室町時代の守護所、つまりは邸宅兼行政府であり、防御機能はそれほど強固ではなかった。ただ、館と詰城というのが一般的な時代で、今川氏も北西に賤機山城という詰城を持ち、周辺の出城と連携して防衛するようになっていたという。

 また、今川氏時代の駿府は、藁科川と安部川が土砂を運んで作った平野という姿をそのまま残しており、両川は今と違って分かれたままで、安部川は賎機山の東麓に沿うように流れ、そのまま現在の静岡市街を東南へ流れていた。さらに、安部川は下流域で幾つにも分かれ、安部川本流とは別に、北川が浅間神社から麻機沼を経て巴川へ、妹川静岡市役所付近から新静岡駅方向へ分流していたというのを頭に入れておかなくてはならない。

駿府城二ノ丸巽櫓と東御門

 こうして見ると、今川館は西南北に天然の堀とする川を控えた立地で、ある程度の防御力を期待できるほか、城下町となる駿府の町は水運も重要な要素だったというのがよく解る。

 駿河守護の今川氏は、憲政以降7代に渡り、その今川館を居館とした。だが、継承は必ずしも順調ではなく、憲政の孫義忠が討死した際には、嫡子龍王丸が幼少であったために義忠の従兄弟小鹿範満を推す家臣団が現れ、家を二分する争いが起こっている。

 この時は、龍王丸の叔父で幕臣伊勢盛時(北条早雲)が中央から派遣され、その仲裁で範満が家督代行として館に入った。しかし、範満が龍王丸成人後も家督を返上しなかったため、長享元年(1487)に早雲が館を襲撃して範満を討ち、龍王丸こと氏親が無事に家督を継いでいる。これは、早雲飛躍のきっかけとなった事件でもあった。

 氏親は、翌同2年(1488)に朝比奈泰以に命じて館を修築させ、城下町も整備したといい、この時から今川館は近世的城郭の要件を整え始めたようだ。

駿府城本丸と二ノ丸は公園となっている

 氏親の死後は、跡を継いだ嫡子氏輝の早世で再び家が乱れ、館に在った氏輝の弟義元を、庶兄の恵探の勢力が襲うという事もあったが、この花倉の乱を制した義元が、北条氏や武田氏と同盟を組んで今川家の勢力を西へ拡げ、駿府は京文化を取り入れて華やかに発展したという。

 しかし、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で義元が討死すると、家運が傾き始め、同11年(1568)12月の武田信玄の侵攻では、義元の子氏真の元から家臣の多くが離反し、氏真は戦うことなく館から掛川城へ落ちることとなる。そして、この侵攻により、館は焼失してしまった。

 武田氏の支配となった駿府は、ある程度は再興されたようだが、拠点としては巴川沿いの江尻城が重視され、山県昌景穴山信君といった重臣中の重臣が在城した一方、駿府の館に関しては詳らかではない。これは、海を得るのが信玄の駿河侵攻の大きな目的のひとつでもあったため、海際の城が重視されたのと、戦火による荒廃で駿府の重要性が下がったためかと思われる。

駿府城の本丸堀は一部が掘り返されている

 その後、天正10年(1582)の織田徳川連合軍による甲州征伐では、徳川軍の侵攻により、城や町は再び火に包まれたという。

 武田氏滅亡後、駿河徳川家康の領地となり、天正13年(1585)に家臣の松平家忠に命じて駿府に近世城を再築した。これが、現在残っている駿府城の実質的な創始である。

 城の工事は、翌年の家康入城後も続き、同16年(1588)には天守が落成したことが「家忠日記」に見えるが、どんな天守であったのかや、本丸と二ノ丸で構成された縄張の詳細などは不明という。

 翌々年の小田原の役の後、家康は北条氏の旧領である関東に移り、駿府城には秀吉子飼いの中村一氏が入部したが、その目的は家康の監視にあったようだ。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、その中村氏は米子に加増転封し、翌年には内藤信成が入って駿府藩が成立したが、同11年(1606)には近江長浜へと移り、やがて駿府藩主となった子頼宣の後見という形で家康が再び入部することとなる。

駿府城に建つ徳川家康

 こうして、駿府城は未だ幕府の実権を握る大御所の城となったため、天下普請の形で三ノ丸の拡張や天守の造営が進められ、翌年の完成を待って家康が入城した。また、この時に安部川と藁科川の合流や城下町の整備なども併せて行われ、城周辺も大きく変えられている。

 しかし、この新たな駿府城は、同年中には失火で主要な建物が焼失してしまい、翌年からの再普請によって同15年(1610)には五層七階の天守などが再び造営されたのだが、この天守寛永12年(1635)に飛び火で焼失し、以降、天守は再建されなかった。

 元和2年(1616)の家康没後、頼宣は同5年(1619)に紀州和歌山へと移り、寛永元年(1624)には家康の孫忠長が入城したが、同8年(1631)に乱心を理由に蟄居を命じられ、以降は城代のみが置かれることとなる。

 幕末には、慶応4年(1868)の江戸城開城に伴って徳川宗家を継いだ徳川家達駿府藩主となり、翌年に入城して賤機山から名を取った静岡藩へと改名されたが、その期間も短く、廃藩置県静岡藩は廃され、城も明治24年(1891)には払い下げられてしまった。そして、同29年(1896)に陸軍駐屯地となり、天守台の破壊や内堀が埋め立てられ、現在の形になったという。

駿府城解説板

 城の構造は、天守台を持つ本丸を、本丸堀、二ノ丸、中堀、三ノ丸、外堀の順で囲う典型的な輪郭式の近世平城であるが、本丸と二ノ丸がほぼ同一方向の方形であるのに対し、三ノ丸はやや右に傾き、北から東にかけては横矢を入れつつ軽く弧を描く形となっている。

 現在は、天守台が失われているほか、本丸堀が発掘された一部を除いて埋められたままで、外堀も半分程度埋め立てられているが、市街地に存在するという割には比較的良好に城域を残している城と言えるだろうか。

 城を訪れてみると、中堀より内側はひたすら平坦で、只のだだっ広い公園のようだったが、平成になってから巽櫓と東御門が復元され、城らしい雰囲気が少し漂うようになっている。また、訪れた時は坤櫓が復元中で、完成すれば、発掘されている一部の本丸堀を合わせて、南側はかなり城跡らしくなるのではないだろうか。

駿府城二ノ丸北御門と中堀

 

最終訪問日:2013/12/26

 

 

城内を歩いてみると、遊ぶ子供達やスケッチをする人、写真を撮る人、走っている人など様々で、都市部にある城跡らしい風景が広がっていました。

市民にとって、良い憩いの空間になっているようですね。

城跡の復元は色々と進んでいるようなので、一段落つけば、また訪れたいお城です。