Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

高田城

 江戸時代の上越を治めた高田藩の城で、徳川家康の六男松平忠輝の居城として、直江津にあった福島城を廃して慶長19年(1614)に築城された。

 忠輝の舅であった伊達政宗が普請総裁となり、東国13大名が普請して4ヶ月という短期間で完工したが、時間的制約からか天守や石垣を構築せず土塁でできており、東国らしい城の造りとなっている。

 初代城主であった忠輝は、家康の子という、江戸幕府では最も尊崇される血統を持ち、家康の次男結城秀康の家系である越前福井藩と共に、外様の中で最大の大名であった加賀藩前田家を監視する役目を負っていたと思われるが、大坂の陣で遅参するなどの不手際や、兄である2代将軍秀忠の命に度々背くなどしたため、大坂の陣の翌年である元和2年(1616)に改易となった。

 忠輝改易の理由は諸説あるようで、表向きは家康の遺命ということだが、秀忠は、規則や将軍を蔑ろにして気ままに行動する忠輝を、幕府の威信を脅かす者と捉え、組織防衛の本能として社会的に抹殺したとも推測できる。そのほか、伊達政宗が舅であり、大久保長安との関係もあったことから、外戚が警戒されたためという説もあり、明確な理由というほどの定説が無いようだ。

高田城の象徴である三重櫓

 類似の例としては、越前福井藩の2代目である松平忠直も幕府に反抗的だったとされ、改易されている。将軍家の血族は、その血が濃いほど、その権力や、将軍との格差故に、心に屈折したものを抱えやすかったのかもしれない。

 ちなみに、忠輝は転々と配流された果ての諏訪にて92歳で没したが、その晩年には文化的な貢献をし、庶民にも親しまれていたというから、その心情は涼やかなものになっていたのだろう。

 忠輝後の高田城には、酒井氏の統治時代を挟んで忠直の弟忠昌が入ったが、前述のように忠直が乱行で豊後へと移された後、越前福井に忠昌が移り、高田には忠直の子光長が入れ替わりで入部した。

 この光長は、地震で倒壊した天守代わりの隅櫓を三層にし、小栗美作を起用して城下町の区画整理直江津港の整備などで治績を挙げたが、家督相続絡みの越後騒動と呼ばれる内訌が起こり、改易となってしまっている。その後の一時期は、天領となって城番が置かれていたが、稲葉政往が入部して高田藩が再び成立し、戸田氏、久松松平氏、榊原氏と続いて維新を迎えた。

高田城公園案内図

 維新後の城は、明治3年(1870)に主要な建物が焼失し、翌年の廃藩置県で城としての機能が失われ、同6年(1873)の廃城令で軍用地に転用されている。そして、明治19年(1886)頃に象徴だった三重櫓が取り壊され、同41年(1908)には陸軍が土塁の削平や堀の埋め立てを行っているのだが、現在も方形に近い本丸とそれを囲う内堀、外堀の三方は良好な形で残っており、市街地化しやすい近世平城の城址としては、十分な残存状況と言えるだろう。

 城の構造は、方形の本丸を中心に、それを囲む二ノ丸、南に三ノ丸と北に北ノ丸を配し、関川と青田川が東西の天然の堀として防御線を成していた。ほぼ三重となっている堀だが、方形の本丸に対して外堀は平行四辺形に近い形となっており、近世に入ってからの築城で地形的制約を受けにくい平城ながら、特徴のある外郭線の城と言えるだろうか。

 現在の城跡は、内郭部分が公園化されており、外郭部分には博物館などの公共の建物が建っていた。実際に堀沿いなどを歩いてみると、ほぼ当時と変わらない状態に復元されている感じで、土塁と堀の姿が美しく、城の規模も実感としてよく解る。また、城のシンボルだった三層櫓とそれに連なる塀が、平成5年(1993)に復元されており、見学する事が可能だ。

 

最終訪問日:2001/9/17

 

 

落ち着いた雰囲気の城跡で、市民にとっても憩いの広場となっているようです。

ただ、訪れた時は三階櫓が休館日で、そこだけはとても残念でした。

ロングツーリングだと、そういう曜日が出てくるのは仕方ないんですけどね。