Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

長岡城

長岡城本丸跡の碑と石垣をモチーフにした石材のオブジェ

 江戸時代の長岡藩の城。芋引形兜城ともいう。

 長岡城が築かれる以前は、古くは越後長尾氏の一族であった古志長尾氏の景春が、やや北の信濃川沿いにあった蔵王堂城に在ったことが見え、戦国時代には上杉謙信を支える有力な一門衆であった。

 しかし、天正6年(1578)に没した謙信の後継を巡る争いである御館の乱で、当主景信が北条氏から養子に入った景虎を支持して討死し、後継と目されていた河田長親も直後に没したため、古志長尾氏は断絶してしまい、長岡周辺は上杉氏の直轄となったようだ。こうして、蔵王堂城には代官として丸田俊次などが入ったという。

 慶長3年(1598)に上杉氏が会津へ転封すると、春日山城には堀秀治が入部し、弟の堀親良が蔵王堂城に封ぜられた。親良は、秀治の子鶴千代を養子に迎えていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に父秀政の従兄弟で本家の家老でもあった堀直政と不和になり、鶴千代に家督を継がせて出奔してしまう。そして、鶴千代がまだ幼少であったため、直政の次男で坂戸城主の直竒が鶴千代を後見したが、慶長11年(1606)に鶴千代が早世してしまったため、直寄がそのまま蔵王堂3万石も継承した。

長岡城二ノ丸にある城址碑と城内稲荷社

 この直竒は、信濃川の侵食が懸念される蔵王堂城を放棄し、長岡へ新城築城の構想があったようで、慶長10年(1605)頃から基礎工事はすでに始めていたらしい。だが、本格的な築城を始める前の慶長15年(1610)に、直寄と兄直清の対立から越後福嶋騒動が起きて堀氏は改易となり、直寄も信濃飯山へ減転封となったことから、築城工事は中止された。

 この後、長岡周辺は松平忠輝高田藩領となったため、長岡城の築城は、元和2年(1616)に松平忠輝の改易によって直竒が蔵王堂城に再び入ってからとなる。

 長岡に戻った直竒は、長岡城の築城と城下町整備を推し進めたが、長岡8万石を治めたのは僅か2年で、同国村上へ移封となったために城を竣工できず、代わって入部した譜代大名の牧野氏が城を完成させた。

 この牧野氏は維新まで続くのだが、当初は新潟湊の運上収益や新田開発で潤った藩財政も、新潟湊が幕領になったことや経費の増大、公役負担に加え、2度の火災や5度の洪水、文政11年(1829)の三条地震による城の損壊もあって悪化し、幕末には財政改革の必要性から、河井継之助秋義が登場してくるのである。

長岡城説明板

 継之助は、大胆な藩政改革で藩財政を立て直した手腕も見事だったが、慶応4年(1868)の戊辰戦争の際に素早く軍資金を確保し、軍備を整えた手際が特に素晴らしかった。幕末史にほとんど登場しない北陸の小藩が、当時日本に3台しかなかったガトリング砲を持っていたことは驚きである。

 そして、この武力を背景に、継之助は武装中立を掲げて小千谷談判に臨むが、中立が認められるはずも無く、新政府軍と決裂し、長岡藩は奥羽越列藩同盟に加盟して官軍との戦闘へと進んでいく。

 継之助は、藩の兵制をすでに洋式の兵制に変え、装備も改めており、巧みな戦術で兵力に勝る官軍相手に3ヶ月近くに渡って戦い続け、長岡城は5月19日に一旦は落城炎上するも、7月24日に城の背後の八丁沖という湿地帯を渡って新政府軍を急襲し、翌日には奪還に成功している。

 しかし、数に勝る新政府軍が態勢を整えて逆襲に転じると、長岡藩にはもう城を支える余力は無く、29日に再び落城した。そして、会津戦争終結後、長岡藩は復興を許されたが、財政の逼迫もあって城は復興されることのないまま、明治3年(1870)に藩は城や知行を返上することとなる。

長岡城の縄張と現在の地図

 継之助の方策には、現在でも賛否両論あるのだが、人物の多い幕末史でも異端の存在であり、財政的軍事的手腕に対する評価は高い。継之助ほどの才能を持った人間が、中央、あるいは西国に生まれていれば、どのような生涯だったのかというのは、非常に興味を起こさせる題材である。

 城は、東に栖吉川、西に信濃川と柿川を置いて防御線とし、本丸と二ノ丸は梯郭式、その外側が輪郭式の城と言えるだろうか。

 城の遺構は全く失われ、道路などの街の形状からも痕跡すら窺えないが、現在の長岡駅に本丸の東半分が重なっており、アオーレ長岡の部分が二ノ丸南半分に当たる。この本丸と二ノ丸はそれぞれ内堀に囲まれて独立しており、その外側に三ノ丸を始めとした郭群が方形の形で本丸と二ノ丸全体を囲むように造られ、その外にほぼ同心円状に中堀、そして郭を挟んで外堀と続く。また、城に天守は建てられなかったが、本丸北西の三層の隅櫓を代用とし、本丸の一部を石垣、他は土塁で防御を固めていた。

 戊辰戦争での荒廃や鉄道の開通があり、さらに第2次大戦での空襲も酷く、街の姿が江戸時代と大きく変わってしまったため、現在では、城を示すのは駅前の小さな本丸跡の碑とアオーレ長岡の広場にある城址碑ぐらいである。ただ、アオーレ長岡建設の際に、旧二ノ丸の一角として城址碑などが整備されたため、以前よりは見つけやすくなった。城址碑近くに長岡の年表などもあり、遺構は無いものの、一応は城跡に来たという感覚は得ることができる。

 

最終訪問日:2014/5/11

 

 

長岡城跡である長岡駅前は、長岡花火の三尺玉の模型が大きな扱いで、本丸跡の碑は小さく、以前に来た時には、長岡駅前に泊まりながら見落としたぐらいでした。

一方、アオーレ長岡の方は、厚生会館や公会堂があった時に比べて、二ノ丸跡ですけど少しは城跡として認識しやすくなり、ぐっと良くなりましたね。