Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

黒野城

黒野城址碑と本丸土塁

 文禄3年(1594)に甲斐より入封した、加藤貞泰によって築城された平城。

 貞泰の父光泰は、最初は斎藤氏に仕えていたが、その滅亡後は秀吉に仕え、天正10年(1582)の本能寺の変の後は、丹波亀山城近江高島城、大垣城などの城主を務めた。そして、一旦は知行を召し上げられるものの、後に佐和山城主を経て甲斐府中24万石を領すほど重用されたが、朝鮮出兵中に没してしまい、跡を継いだ嫡子光貞はまだ14歳であったため、4万石に減封されてこの地に移されたという。従って、実際に黒野城の築城を企図したのは、貞泰ではなく家臣の誰かか、あるいは家臣団合議の末の結論だったものと思われる。

 貞泰は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、当初は西軍に属して犬山城に入っていたが、弟を人質として東軍に転じ、犬山城に在った諸将を説得して東軍に味方せしめた。そして、関ヶ原の合戦本戦にも参陣し、水口城攻略にも功を挙げ、領地を安堵されている。

 その後、貞泰は、同15年(1610)には米子6万石へ転封となり、城は黒野藩と共に廃されたため、城としての存在期間は非常に短い城となった。

 現在は、黒野古城公園として、本丸とそれを取り巻く内堀が残されており、本丸周辺のみは当時の姿を留めている。この本丸は、形はほぼ110m四方の正方形で、東南隅と西北隅の土塁上には隅櫓があったと思われる空間があり、その外側に内堀があるが、幅が15mほどという。そして、その外側に堀で区画しながら二ノ丸と三ノ丸を輪郭式に置いた縄張をしており、現在でも地図上から外堀のラインを薄っすらと辿ることができる。また、この本丸以外がどうであったかは、惣門口、二之丸、徳田屋敷といった城の痕跡を示す地名を頼りに、想像することが可能だ。

 本丸は、高さ約5.4mの土塁に囲まれ、西南隅のみが桝形の大手口として口を開けているが、この城門付近も含め、本丸南側が昭和の復元工事まで失われていたことから、後世の手がかなり入っているようだ。また、そこには城門の礎石が残っているらしいのだが、それは表出していなかったのか、よく判らなかった。

 公園は、県道91号線のすぐ北にあり、訪れた時は工場に隠れて道からは見えないこともあって、辿り着くのに時間がかかった。現在は、地図で見る限りは公園までの視界が確保されているようで、見付けやすくなっていると思われる。ただし、周辺の道が細いので、注意が必要だ。

本丸跡の全景

 

最終訪問日:2002/11/13

 

 

岐阜城から、北東方向に鷺山城、黒野城と3km前後で等間隔に並んでいます。

長良川の北側は細い道も多いんですが、のんびりとこれらの城を巡るのもいいですね。