Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

鷺山城

最高部の本丸跡の城址

 伝承では、平安時代から鎌倉時代へと移り変わる文治3年(1187)に、佐竹常陸介秀義が築城したと伝わる城。

 だが、その後は城の記録が途絶え、室町時代には美濃国守護職にあった土岐氏の所有となり、土岐一族が城主となっていたというが、詳しいことは分かっていない。

 戦国時代に入ると、明応4年(1495)から1年続いた船田合戦による、土岐氏の累代の本拠川手城とその周辺の荒廃が酷かったのか、永正6年(1509)に土岐政房は福光御構を築いて守護所を移している。その福光御構は、鷺山城と稲葉山城の中間にあり、福光御構から鷺山城の東麓まで細長く屋敷町が続いていた可能性も指摘されるなど、鷺山城が守護所防衛に何らかの役割を果たしていた可能性が高い。

 この福光御構という新たな守護所を得た土岐氏は、安定するかと思われたが、この政房の晩年には、政房が家督を次男頼芸に継がせようとしたため、再び土岐家中で家督相続の争いが起こってしまう。

 こうして、頼芸への政房の溺愛ぶりから廃嫡への危機感を持った嫡男頼武(政頼)と、頼芸との間で、永正14年(1517)に合戦が起こった。この年の戦いでは、頼芸が一旦は敗れたものの、翌年には頼芸が勝利し、頼武は越前へと逃れている。しかし、同16年(1519)に政房が没すると、頼武が美濃に戻って福光御構を占拠し、鷺山城もこの時に落城した。

 この頼武の逆襲により、頼武が守護職を継ぐことで合意され、福光御構がそのまま守護所として使われたが、守護の座を諦めきれない頼芸は、長井長弘らの助力を得て大永5年(1525)6月に再び挙兵し、福光御構を占拠している。頼武も負けず、直後に奪い返したものの、頼芸が再度福光館を奪い、享禄3年(1530)には頼武が再び越前への落去へと追い込まれ、頼芸が事実上の守護となった。この一連の流れの中で、福光御構と鷺山城は、ほぼ一体での争奪であったと思われる。

 この後、天文元年(1532)に、鷺山城から福光御構の延長上の東にある枝広館へと守護所が移されたが、距離的に鷺山城も重視されたのだろう。この後、天文4年(1535)の長良川大洪水があり、大桑城へと守護所は移って行くのだが、一説には、洪水の後にこの鷺山城へ守護所が移ったとも伝わる。

 その後の頼芸は、道三と対立し、国外追放と帰国を挟んで天文21年(1552)年には完全に国外へと追放され、道三は父子2代に渡る下剋上で美濃一国を手に入れたのだが、追放した土岐氏を支援する隣国からの干渉も多かったため、美濃国の外へと勢力を拡げることは叶わなかった。やがて、娘の帰蝶を信長に嫁がせて織田家と同盟を結び、義龍に家督稲葉山城を譲って隠居した道三は、この鷺山城を隠居城としている。

 しかし、当主として稲葉山城を本拠とする義龍と次第に対立した道三は、義龍が道三の可愛がっていた2人の弟を討ったことを知ると、この城から北東の北野城へ退いて軍を整え、弘治2年(1556)に長良川河畔で戦い、有名な信長への譲り状を書いて敗死した。そして、城を守っていた石谷対馬守も討死し、城はこの合戦の後、廃城になったといわれている。

 鷺山は、標高68mながら、お椀型の山容で中腹は急峻になっており、平野にある独立丘陵としては、絶好の築城地だろう。ただし、高度成長時代に工事用の土砂が採取されていたらしく、どれだけ戦国当時の地形を保っているかは分らない。

 城の形式としては、築城当初は山城、さらに言えば標高の低い丘城に分類される構造だったかと思われるが、東麓に居館が拡張された事を考えると、戦国時代には平山城になっていたと言えるだろうか。

 鷺山を散策すると、頂上部分には平坦な地形があって、本丸跡と思われる削平地と、そこから高低差のあまりない2段の平坦地が認められるが、この頂上部は工事などで手が入った様子もないため、恐らくこの3つの郭が主郭を成していたと思われる。ただ、道三は麓に庭園を持った居館を営んだと史料にはあるのだが、該当地の発掘調査ではその形跡はなかったという。

 現在は、住宅地の中にポツンと山が残っている状態で、遊歩道も整備されており、地元の人の良い散策路となっているようだ。また、南麓にある北野神社には、宅地造成の際に発見された礎石と見られる岩がある。

 

最終訪問日:2002/11/13

 

 

国盗り物語に何度も出てきた鷺山城。

発掘調査の結果からは、それまでの講談的に伝わっていた伝承と実際の城の姿が少し違うと推測されていますが、それでも登った時は感慨深かったです。

当時は自覚は無かったですが、今で言えば聖地巡礼ですね。