Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

桜洞城

農地の脇にある桜洞城址碑

 飛騨南部を掌握していた三木氏の居城。

 三木氏はミツキと読み、そもそもは佐々木京極氏、あるいはその守護代である多賀氏の被官である。血統としては、宇多源氏佐々木氏流多賀氏の庶流ともいわれるが、多賀氏自体は、多賀大社氏神とする近江の在地豪族か中原氏という説が有力で、また、三木氏も傍証から藤原姓が有力とされており、佐々木庶流でも多賀氏庶流でもないようだ。ただ、明確に血統を示す史料は無く、正確な系統は不明という。

 南北朝時代以降の飛騨は、南朝方で国司であった姉小路氏と武家方の守護であった京極氏との勢力争いが、その歴史のほとんどを占めるのだが、争いを繰り返す中で次第に京極氏が優勢となった一方で、姉小路氏は内部分裂を起こして三分した。

 このような情勢の中、飛騨の支配は守護代である多賀氏に任され、これに伴って三木氏も、近江から飛騨川の支流竹原川沿いの益田郡竹原郷へ入部したようだ。その時期は、一説に、古川姉小路家の尹綱が他の小島姉小路家と小鷹利姉小路家を攻めた、応永18年(1411)の動乱の鎮圧の際ともいう。

 ただ、この時に入部したのは、後述する三木久頼の父正頼とされるが、久頼の討死年代から考えて父子では開きがあり過ぎ、入部前後の当主や年代については、伝承程度と捉えるべきかも知れない。

L字状に残っている大きな空堀と土塁

 その後、文明3年(1471)に久頼が古川姉小路基綱との合戦で討たれた事が見えるが、当時は応仁の乱と言う大乱の最中で、さらに前年から京極騒乱と呼ばれる家督争いも起きており、京極氏の有力家臣である多賀氏も一族を二分して争っていた。久頼は、その一方の雄で飛騨守護代でもある多賀清直の命で動いていたらしく、基綱側には、対立する東軍からの支援があったようだ。

 このように久頼は討たれてしまうのだが、京極騒乱で京極氏と多賀氏の勢力が衰える中、その死後も三木氏の勢力は伸長し、久頼の孫直頼の時代である大永元年(1521)には、現在の高山市街中心部である三仏寺城にまで進出していることが見える。また、桜洞城も、この直頼が築いたという。ただ、一説に桜洞城は久頼以来の居城で、直頼とその子良頼の時代に完成したといもいわれる。

 その後、直頼は、在京する古川姉小路家当主に代わって現地代官として勢力を蓄えた家臣古川富氏に対し、小島、小鷹利の両姉小路家の協力で古川城を攻めて富氏を討ち、また、奥飛騨の雄である江馬氏とも争うなどして、勢力を固めて行った。

 直頼の子良頼(良綱)の代には、小島姉小路家と結んで他の二家を没落させ、やがて永禄元年(1558)に良頼が飛騨守の叙任に成功し、翌年には子頼綱が飛騨国司に、さらに翌年には姉小路名跡継承も許されている。

 こうして、姉小路家を乗っ取った良頼は、名実共に飛騨の最大勢力となったが、飛騨は強大化した武田信玄上杉謙信という2大勢力の信濃越後間の戦いの裏道とされた感があり、越中への連絡路確保を目的とした武田軍の侵攻が始まった。

石垣の石材と思われる石が散乱している突端部

 これに対し、良綱は上杉方に誼を通じていたため、永禄7年(1564)に武田傘下の江馬氏に合戦を仕掛けたが、戦いに敗れ、江馬氏に領土を割譲した上に武田氏に臣従している。とは言え、元亀元年(1570)には頼綱を上洛させて信長と誼を通じるなど、独自外交は健在で、元亀3年(1573)には上杉氏の越中出兵要請に応えるなど、勢力の狭間ならではの行動を取り続けた。

 頼綱の代になると、信長の与党としての活動が目立つようになり、多彩な外交は息を潜めるが、内的には上杉派の国人領主を次々に滅ぼし、親族へも躊躇はしなかったようだ。このような背景の中、頼綱は高山盆地に松倉城を築き、桜洞城から居城を移している。いよいよ、飛騨一国を統一するという意思表明でもあったのだろう。

 松倉城へと居城が移された後の桜洞城は、嫡男信綱が城主となり、家督を継いだのだが、同年には謀反の疑いで松倉城にて謀殺されている。何らかの方針対立があったものと思われるが、移譲からの期間が短く、父子対立にしてもやや特異な印象を受けるが、実際の所はどうだったのだろうか。

 その後、桜洞城は、雪に覆われてしまう山城の松倉城の代わりとして冬に使われ、冬城と呼ばれたが、天正10年(1582)の本能寺の変後は、信長の後継者争いで秀吉と対立する佐々成政に加担したため、同13年(1585)に秀吉の命を受けた金森長近に攻撃され、落城した。長近は、支城として翌年に萩原諏訪城を築いたため、城はそのまま廃城になったという。

農地となっている台地上の城跡の全景

 城の構造は、飛州志に東西144m、南北180mの方形とあり、周囲を空堀で囲い、特に東から南に掛けては二重であったとされ、形状的には明らかに居館を基に発展させた城である。雰囲気的には、江馬氏下館と似ており、広い削平地を持つ崖城的な居館と背後の峻険な詰城という、飛騨の標準的な本拠城であるが、肝心な詰城の存在は不明という。

 桜洞城は、飛騨川左岸の段丘上にあるのだが、飛騨萩原駅の北の桜谷公園が目印として最も近い上に駐車場もあり、公園から階段で段丘上の城跡へ行くことができる。

 城跡自体は、残念ながらほとんど遺構を残しておらず、かつての主郭部と思しき部分は農地になっており、鉄道開通の際にも削られたようだ。遺構としては、L字型の空堀が残っているほか、浅くはなっているものの堀と土橋の組み合わせが確認できた。また、石垣の痕跡も確認できる。

 ただ、これだけでは縄張を想像するのすら難しく、かつて飛騨随一の勢力を誇った三木氏こと姉小路氏の居城としては、かなり寂しい状態の城跡だった。

 

最終訪問日:2017/5/19

 

 

地形から、そこそこの堅さを持った城だったんだろうというのは解るんですが・・・

完全に農地!

着実に飛騨で勢力を拡げて行った時代の三木氏の本拠だけに、惜しいですね。