Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

中道子山城

赤松城址という城址碑がある広大な中道子山城本丸

 築城は、室町幕府の重鎮だった赤松円心則村の四男でありながら兄達との不仲から宮方に付いた氏範とされるが、一説には則村の三男則祐の曾孫繁広ともいう。氏範説と繁広説では時代的にかなり差があるのだが、両者共に伝承が正しいとするならば、氏範は、その時代に山に在ったという中道寺という寺院を麓に移して構造物を城の防御施設として流用し、後に本格的に本拠地として築城したのが繁広という推測が成り立つ。また、山の名前も、中道寺から転じて中道子になったと推測される。

 ただ、これとは別に、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際に城主として志方顕茂の名が見えることや、発掘調査の結果では永正大永年間(1504-28)頃の築城とされたことから、伝承と符合しない部分も多い。城の規模の割に史料が少なく、実際には築城者や築城時期は不詳とするのが妥当だろう。

現地説明板と縄張図

 中道子山築城者のひとりと伝わる繁広は、善坊山城主であった赤松庶流孝橋氏に、同じく赤松庶流大河内家から入嗣した武将である。孝橋氏は、嫡流の赤松義則の子則繁が始祖で、則繁は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱を起こした満祐の実弟であり、乱の首謀者のひとりでもあった。兄の命で城山城を落ち延びた則繁は、行方知れずとなって朝鮮に渡るなどしたが、やがて文安5年(1448)に自刃している。一方、満祐に代わって惣領となった満政は、大河内流で繁広の父とされており、嫡流に近い孝橋家の繁広による相続は満政の意向だったと思われるが、満政自身が文安2年(1445)に討たれており、嘉吉の乱からの僅かな期間の話なのかもしれない。

大手となる二ノ丸虎口と櫓台

 この繁広の継承後、享徳年間(1452-55)に城が築かれたという説も見えるが、当時は山名氏の支配下にあった播磨の奪回を目指して満祐の甥則尚が活動していた時期であり、これと連動した可能性がある。ただ、この試みは失敗して則尚も討たれており、説が正しいとしても、城は維持できなかったと考えるのが良さそうだ。

 この後、赤松政則が惣領家を再興し、応仁元年(1467)からの応仁の乱の際に念願の播磨復帰を遂げ、これに付き従っていた繁広の子繁景も復帰して城を再興した伝わる。また、これは繁広自身の話だったともいう。いずれにせよ、赤松家臣であった孝橋氏は、宗家と浮沈を共にしたようだ。

主郭部への虎口にある石垣

 以降、繁景の子孫が城に居したが、繁景の子政頼の時代には守護代であった浦上氏が台頭した為、政頼も赤松配下として度々浦上氏と戦っている。この後も管領細川氏の内訌や、天文6年(1537)から翌年に掛けての山陰の覇者尼子氏の侵入など、主家である赤松氏に絡んだ合戦が絶えなかったが、尼子氏の侵攻を機に赤松氏の領国体制が完全に崩壊してしまった為、この頃から孝橋氏も半独立状態となった可能性が高い。

 天文18年(1549)には、政頼の子秀光が細川晴元の軍に属し、四国から畿内に勢力を伸ばしてきた三好長慶と摂津三宅城で戦って討死しているが、この時も赤松氏の影響力は限定的で、これも赤松氏を飛び越えて中央勢力と直接結びつくようになった証と思われる。だが、赤松氏の重しが取れたことによって、中央で権勢を得た長慶が播磨の直接支配に乗り出し、秀光の子秀時は侵入してきた三好軍と戦ったが利あらず、やがて弘治年間(1555-58)に佐用へ退いて城も廃城になったという。

主郭部中央にある空堀と土橋

 長慶自ら軍を率いて三好家の大軍が播磨に侵攻したのは天文24年(1555)、つまり改元後の弘治元年と同じ年で、中道子山城の廃城年代にも合致するが、あくまで播磨の東部への侵攻であり、前述のような廃城のきっかけとなった戦闘が志方付近であったのかなどは、調べてもよく分からなかった。ただ、退いた先の浅瀬山城も天文年間(1532-55)の築城とされ、三好軍の侵攻と浅瀬山城の築城、中道子山城の廃城が天文末年と弘治初年の1555年で見事に繋がっており、戦闘の有無は別として一連の流れの出来事だった可能性は高そうだ。また、これとは別に、伝承では秀吉による三木合戦の際に落城したともいわれ、その落城伝説が地元には残っているという。ただ、城の規模が比較的大きい割に、織田氏側の史料に名前が出てこず、実際には大規模な戦闘は無かったとされている。

 この城は中世山城である為、地形と高低差を防衛力として重視したと思われるが、山頂の本丸は広大な平坦地であり、峻険さが肝要な中世山城から次第に削平地が大きくなる近世山城への移行期の城らしい特徴と言えるだろうか。発掘調査では、築城後すぐに火災があり、その後に規模を大きくして再築されたことが判っている。

三ノ丸の搦手門には石垣の痕跡が見られる

 城の構造としては、北東の最高地を本丸とし、一段下がって土塁で囲まれた米倉、更に下がって二ノ丸と三ノ丸の間を結ぶ、空堀と土橋も備えた大きな削平地を造り、ここから北西にほぼ同標高の三ノ丸が、南東には三ノ丸の高さより下に高低差のある2段の二ノ丸が設けられていた。大手は二ノ丸下段の西側に繋がり、搦手は三ノ丸北西側で、各虎口には石垣の痕跡も見られ、大手虎口は櫓門であったという。また、大手道となる旧登山道を辿ると、途中に非常に峻険な岩場があるなど、城内部分の平坦さから来るイメージとは違い、要害であることがよく解る。

 現在は桜が多く植えられており、春などは花見客で賑わいを見せ、それ以外の休日もちょっとしたハイキングにちょうど良い為か、家族連れが多く訪れているようだ。また、紅葉の木も多く見えたので、秋には素晴らしい紅葉が見られるのだろう。

 

最終訪問日:2014/5/4

 

 

頂上から見える稲美野の眺めは非常に素晴らしく、明石海峡大橋や淡路までが見渡せ、城としての立地条件の良さが景色で証明されています。

ただ、これだけの好立地で、しかも規模も整えられているのに、戦国末期まで使われ続けなかったようなので、個人的には不思議な思いがする城ですね。