Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

松原城 (蒲公英城)

原城跡は丘陵を削られて遺構が消滅

 松原城と呼ばれるが、信長公記では道場川原城と書かれた城に比定されており、別名として蒲公英城ともいう。

 城は、南北朝時代赤松円心則村の四男氏範が有馬郡に勢力を張り、松原城の北方6kmほどの東野上城を本拠とした際、その支城として築城され、嫡男氏春が城主を務めたと伝わる。別名である蒲公英城は、城主の娘が鼓の名手であったことから、つづみ草とも呼ばれる蒲公英の名が付いたといわれるが、その娘は氏春の娘だったのかもしれない。また、一説には、城内や城下に流れる水の音に由来しているともいう。

 その後、氏範・氏春父子は概ね南朝方として活動したが、元中3年(1386)に追討を受けて播磨国加東郡清水寺で自刃しており、蒲公英城も赤松惣領の手に戻ったと見られる。その後、山名一族が叛乱を起こした明徳2年(1391)の明徳の乱に功を挙げた、円心の三男則祐の子義祐が、有馬郡の地頭職を得て東野上城に入城しており、蒲公英城も支城として機能したと見られるが、史料に登場せず、城がどうなったかはよく判らない。ただ、この義祐の子持家の時代に家臣として松原六郎左衛門が見えることから、すでに松原氏の城であった可能性も考えられるだろう。

 次に蒲公英城が登場するのは、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で赤松氏が滅び、赤松遺臣らが南朝方から神器を奪回して赤松家の再興を許され、応仁元年(1467)の応仁の乱で播磨を奪回した後である。これら一連の戦いに功を挙げた松原貞基が、蒲公英城を与えられたと系図にはあるのだが、有馬赤松氏は嘉吉の乱の際も幕府側に立った為に安泰で、摂津にある蒲公英城が山名氏に奪われていたとは考えにくく、詳細は知れない。系図では、貞基は嘉吉の乱を起こした満祐の弟祐之の子とされるのだが、祐之の名は系図類に見えず、こちらも信憑性には欠ける。ただ、松原氏の城となって以降、城は松原城と呼ばれるようになったという。

 以後、義貞、家久と引き継がれたが、家久は、管領細川家の家督争いである両細川の乱で細川高国に与した浦上村宗と戦って討死している。このことから、播磨から摂津にかけての細川晴元側の各城が村宗によって席巻された、享禄3年(1530)から翌年に掛けて、城が落城したのかもしれない。

 その村宗と高国は、同4年(1531)の大物崩れによって滅んだ事により、晴元が家督を継いで管領となったが、家久の跡を継いだ家長は城に復帰し、その配下として活動したようだ。家長の跡を継いだのは義富で、永禄11年(1568)の信長の上洛以後の事績は不明だが、少なくとも元亀4年(1574)の室町幕府滅亡の頃には、摂津一国を任されていた織田家荒木村重に属していたと思われる。その村重は、天正6年(1578)に信長に背き、毛利・別所・本願寺らの盟約を結んだのだが、これにより松原城も織田軍の攻撃対象となり、衆寡敵せず、織田軍の大軍の前にあっさり落城し、義富は自刃したとも落去したともいう。

 発掘調査によれば、この落城の後、織田軍によって急造の付城として強化されており、三田に籠っていた荒木重堅に対する中継拠点や兵站拠点として使われたようだ。また、西に街道を辿れば三木に出ることができることから、三木合戦の兵站拠点だった可能性も指摘されている。そして、これら敵対勢力が一掃された後、城の事績は見えなくなり、少なくとも江戸時代初期までには廃城になったようだ。

 城は、大坂から丹波へと抜ける現在の国道176号線にあたる丹波街道と、有馬川沿いに有馬温泉へと通じる湯山街道、長尾川沿いから三木へと抜ける街道が、それぞれ繋がる地点に近い比高25m程度の丘陵にあり、交通の要衝にあった城と言える。地形的には、西から続く丘陵の突端部にあたり、南の八多川と北の長尾川が堀の役目を果たし、城地としてのポイント押さえていた城だ。

 ただ、城の規模自体は大きくなく、丘陵上に主郭となる2つの大きな方形の二ノ丸と変則五角形の本丸の2つの郭が設けられ、その2郭から下がって小さい三ノ丸と言える郭が南東側にある程度である。これらは丘陵上に北西から南東に並んでおり、最も北西の二ノ丸には、北西側に高土塁が築かれているほか、切岸の下にはいくつかの帯郭が構えられているのだが、これらは発掘調査から、織田氏時代に付城として急造された部分と考えられているようだ。

 現在の城跡は、宅地造成によって遺構が削り取られており、残念ながら全く残っていない。だが、造成前に大規模な発掘調査が実施されており、城のおおよその構造は記録されている。いずれ、城地は新興の住宅地に姿を変えてしまうのだが、説明板などの解りやすい形で、その発掘の成果を現地で確認できるよう期待したい。

 

最終訪問日:2022/10/18

 

蒲公英城の名を知ったのは、発掘調査の説明会の告知でしたね。

こんな可愛い名前の城があるんや、と。

ただ、日程の調整がつかず、残念ながら説明会には行けませんでした。

遺構がもう無くなっていますから、後は解りやすい説明板が建てられることを祈るばかりです。