Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

神楽尾城

 神楽尾城は、築城時期については不明だが、本格的な築城は南北朝時代に行われたと見られる。伝承では、正平年間(1347.1-1370)に宇都宮教貞が在城したというが、詳しい事はよく分っていない。

 南北朝時代には、太平記に見えるように北朝方の赤松氏と南朝方の山名氏の間で激しい攻防があったようで、美作守護となった赤松貞範(世貞)が正平15年(1360)に攻めて降伏させると、翌年には山名氏が美作を席巻しており、神楽尾城も奪回されたようだ。

 その後、山名氏は北朝への帰順に際し、赤松氏に代わって美作の守護を与えられ、山名時義、次いでその兄義理が守護職を務めたが、明徳2年(1391)の明徳の乱によって再び赤松氏が守護職を得ており、美作は、南北朝終結後も赤松・山名両氏の争奪の地であった。ただ、この頃の神楽尾城の事績については、よく分かっていない。

 嘉吉元年(1441)、赤松満祐が将軍足利義教を謀殺した嘉吉の乱が発生し、赤松惣領家が没落すると、美作は再び山名一族で義理の孫教清が守護職に就き、子の政清へと引き継がれたが、時代は応仁元年(1467)から始まる応仁の乱へと突入し、再び赤松氏との争奪戦が激しくなる。この頃の神楽尾城の事績は、相変わらず不明なのだが、後の戦国時代には、山名一族である山名氏兼が城主となっており、山名氏にとって美作における重要な城という認識だったのだろう。

 氏兼は、天文年間(1532-55)初頭より始まった尼子氏の侵攻に対し、幾度か撃退に成功したものの、同7年(1538)に尼子方となっていた稲荷山城主原田忠長に攻撃され、城は落城した。しかし、5年後には氏兼が逆襲し、逆に稲荷山城を落としている。

 その後、尼子氏の勢力が衰えるに従って毛利氏の勢力が浸透し、城は毛利氏の属城になったようで、大蔵尚清と千場三郎左衛門が城将として入っていた。このほか、三浦、宮川、今村といった名も伝わる。

 この毛利氏が支配した永禄年間(1558-70)の後半は、毛利氏やその支援を受ける三村氏と、浦上氏及びその家臣である宇喜多氏が、美作を巡って激しく争った時代で、この城も最前線であった。しかし、浦上氏からの独立を志向する宇喜多氏は、毛利氏へ接近を始め、将軍足利義昭の命もあって天正2年(1574)に和睦し、合一して織田家包囲網の一翼を成すこととなる。しかし、天正7年(1579)の半ば頃には宇喜多氏が織田方に転じた為、再び対決の様相を呈するようになり、神楽尾城の毛利勢が宇喜多方の荒神山城攻撃を企てたものの、それを察知した荒神山城主花房職秀に逆襲され、落城したという。

 以後、城の歴史は不詳となり、いつ頃まで存在しかも不明である。天正10年(1582)の本能寺の変の際、備中高松城開城の和睦によって美作は宇喜多領となり、直後には国衆の叛乱などもあったが、それらが鎮圧されると、本格的な山城である神楽尾城は、次第に使われなくなったのかもしれない。

 津山城から北西1.5kmほどのところ、津山市街の西の端に神楽尾公園があり、その駐車場の北側に、神楽尾城の存在する方向を示す道標がある。その方向に従って10分ほど山道を歩くと舗装された道に出たので、行き過ぎたかと思って引き返したが、城に繋がるような道はなかった。駐車場の西側にあるキャンプ場の辺りも散策してみたが、どうも違うらしい。帰ってから地図を確認してみると、引き返したところにあった舗装された道の更に奥に神楽尾山があり、道も続いているようなので、もっと奥に進まなければならなかったのだろう。

 

最終訪問日:2005/11/24

 

 

実は、2度も訪問しているんですが、城に辿り着けていないんですよね。

以前より情報も多くなったので、次こそは確実に訪問できるはず!