Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

砥石城 (備前)

砥石城登山口

 宇喜多氏ゆかりの山城。砥石山城や砥石ヶ城ともいう。

 築城は、具体的な時期は不明だが、文明15年(1483)に備後守護山名俊豊と備前の有力国人松田元成が連合して備前の守護所である福岡城を攻め、翌年に攻略した後、さらにその翌年に赤松勢が反攻した際、砥石城にて浦上則国が討死した事が見える。従って、この一連の戦い先がけて、戦いの何年か前に守護所を含む千町平野の防衛拠点として、浦上氏によって築かれたようだ。

 宇喜多氏は、文明元年(1469)の室町時代西大寺文書に出てくるのが最初で、鎌倉時代には姓が見えないことから、室町時代に勃興した新興の勢力だったと考えられている。

 出自の伝承としては、百済の王子が児島に土着して三宅を称し、佐々木氏に仕えたが、その三宅氏から分かれた一流が宇喜多氏であるという。また、別の説としては、摂関家の枝葉であるの閑院三条氏とするものもある。ただ、出自の伝承としては幾つも説が存在し、三宅氏の庶流とするのが有力とは考えられるが、実際は不詳としか言いようがない。

 具体的に史料に登場するのは、前述の西大寺文書に出てくる宇喜多五郎右衛門入道沙弥宝昌、そしてその翌年に見える宇喜多宗家が、最初期に確認できる宇喜多姓である。恐らく、この頃には門前町や川湊として栄えていた吉井川河口部に、ある程度の影響力を持っていたのだろう。

 この後、久家を挟んで能家が登場してくる。能家は、赤松家中で随一の実力者であった浦上則宗に仕え、明応8年(1499)の白旗城の籠城戦でその窮地を救う活躍をしたほか、備前の国人松田氏との戦いでも活躍するなど、則宗を武の面で支えた。則宗の後、宗祐を挟んで村宗が浦上氏を継ぐと、主家である赤松義村と不和になり、出仕停止の上、永正16年(1519)とその翌年の2度に渡って討伐を受けるのだが、そこでも能家が活躍して撃退に成功している。この久家か能家の頃に、宇喜多氏は砥石城を与えられたようだ。現地説明板では、その時期を能家の頃の大永年間(1521-28)としている。

砥石城登城口にある説明板

 しかし、能家は天文3年(1534)頃に砥石城で暗殺されてしまう。軍記物等では、隣の高取山城に在った浦上重臣島村貫阿弥(観阿弥)が砥石城を急襲し、能家を自害に追い込んだと伝えられているが、これは後世に成立したもので、島村貫阿弥という武将はおらず、貫阿弥に比定される島村盛貫(盛実)が、諍いによって殺された能家の子興家の事件を裁いたというだけの繋がりに過ぎないようだ。実際には、能家は浦上家中の重要人物であり、浦上氏と対立していた赤松氏によって排除されたと見られている。

 能家の没後、砥石城は能家の弟国定が継ぎ、村宗没後の浦上家中で、当主である政宗と弟宗景が方針の違いから対立すると、引き続き政宗に仕えた。この頃、宗景に仕えたのが能家の孫直家で、直家は宗景の命で砥石城奪回を図り、幾度となく争った結果、弘治元年(1555)か翌年に国定を討ち、砥石城を奪回したようだ。

 奪回後、直家は弟春家を砥石城の城主とし、天正2年(1574)まで在城したと史料にあるのだが、春家は永禄11年(1568)に松田氏の城であった金川城へ、その落城後に入城しており、砥石城がこの頃にどうなっていたか、詳細は不明である。また、廃城時期も不明という。

 城は、川筋の門前町を持つ西大寺や守護所の福岡、刀剣生産の長船などがある吉井川沿いの千町平野の南の山塊にあり、平野を見下ろすことが可能な場所に築かれていた。伝承では、西3町の場所に島村貫阿弥の城である高取山城があったといわれるが、西の至近の場所にある郭群は、現在では砥石城の出丸に比定されている。また、さらに西には高尾城というのも史料に登場するが、これが現在の高取山城跡と同一視されているようだ。この辺りは非常にややこしく、新たな史料の発掘が待たれるところだろう。

 

最終訪問日:2022/10/15

 

 

登城予定でしたが、秋の日はつるべ落としという季節なのに辿り着くのが遅くなった為、登山口を確認するだけに留めました。

隣の高取山城とともに、また登城したいですね。