Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

豊地城

 東条川左岸の河岸段丘に築かれた、ほぼ平城とも言える崖城で、トイチと読み、拾市城とも書かれる。恐らくは、東条川沿いの街道筋に立った十日市が語源なのだろう。

 豊地城の最初期は、劣勢の南朝方の再建の為、播磨で挙兵した新田一族の金谷経氏が拠点とした東条城に比定されており、建武3年(1336)に北朝方によって焼き払われた事が史料上の初出である。この後、経氏は摂津に転戦して翌年に丹生山へ城を築いて本拠としており、東条城はこの時に失陥したのだろう。

 次に豊地城が歴史に登場するのは、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で赤松氏が一旦滅び、その再興が成された後である。この赤松家の再興は、長禄元年(1457)から翌年に掛けて、赤松家の遺臣が南朝の拠点である吉野に侵入して神璽を奪回した長禄の変が朝廷や幕府に評価された為であるが、当初は加賀半国の守護であり、播磨という故地は与えられなかった。

 ところが、応仁元年(1467)になると、赤松氏に代わって播磨守護職を得ていた山名氏と管領細川氏が武力衝突して応仁の乱が勃発し、好機と見た赤松政則は、細川方に与して播磨奪回へと動く。この行動は、赤松氏の旧領ということもあり、赤松旧臣の協力や領民の歓迎で瞬く間に成功した。こうして播磨各地に赤松氏の旧臣が戻り、この豊地城は依藤則忠が領すことになったようだ。

豊地城址碑と土塁全景

 依藤氏の本貫は、城の北を流れる東条川の北側にある依藤野で、伝承では、文治2年(1186)に平家討伐の功によって東条谷を与えられ、入部したという。ただ、その出自は村上源氏とも藤原氏ともいわれ、はっきりとしていない。いずれにしても、東条川流域への復帰は、依藤氏にとっては念願の本貫の地の回復であった。

 赤松氏が播磨へ復帰を果たしたとは言え、山名氏は播磨への進出を諦めておらず、応仁の乱終結後も両者の対立は続いており、文明15年(1483)には山名氏が備前に侵入する。この時、政則は囲まれた福岡城に援軍を派遣する一方で、手薄な但馬への侵攻を企てたが、福岡城を失った上、但馬侵攻軍も国境の真弓峠で12月に大敗を喫した。これによって最有力家臣の浦上宗則を始めとした家臣団が離反し、翌年2月には政則の隠退と慶寿丸擁立を幕府に訴えるのだが、その時の有力家臣として小寺氏、明石氏、中村氏と並んで依藤氏の名が見える。また、この少し前の正月に則宗が東条へ来着したことが備前文明乱記に見えることから、恐らく豊地城で政則隠退に関する会談をしたのだろう。

現地説明碑

 次に豊地城が史料に登場するのは同年12月で、摂津の神呪寺に在った則忠が家臣の栗山氏に感状を出しているのだが、豊地城から退いたことが記されており、山名方によって城は奪われていたようだ。だが、翌年3月13日には豊地城を奪回したことが同じく栗山文書に見える。

 その後、隠退を迫った老臣団と政則の間を取り持った別所則治が、政則の信任を受けて東播磨守護代に就き、その本拠三木城に近い依藤氏と次第に争うようになった。また、政則急死後の赤松家中では、引き続き浦上氏の台頭が進んで主家との対立が深刻化していくのだが、依藤氏は以前と同様浦上氏側に与し、別所氏も必然的に赤松氏側に立っていたとみられる。

 この16世紀前期頃の中央では、両細川の乱と呼ばれる管領細川家の家督争いの真っただ中で、これに義晴と義維という将軍家の家督争いも加わって非常に混沌としていたが、これが近隣の赤松家中の対立にも濃厚に影響した。端的に言えば、赤松方が細川晴元に、浦上方が細川高国方に与して対立し、享禄3年(1530)には赤松方の別所就治が依藤討伐を要請した事により、晴元の有力家臣である柳本賢治が豊地城を攻めている。しかし、依藤氏が粘り強く抵抗した為、籠城が1ヶ月半に及んだ挙句、賢治は村宗の家臣が放った刺客に暗殺され、大将を失った軍勢は総崩れとなり、依藤氏は城の防衛に成功した。

土塁を横から

 この後、村宗は勢いを得て赤松方の小寺政隆の庄山城や就治の三木城を屠り、翌年には高国の援軍として摂津に遠征したが、その増援軍と称して出陣した赤松政祐(晴政)に、突如背後から襲撃されて敗死してしまう。この時、高国も晴元に捕らえられて自害に追い込まれており、この高国陣営の大敗北を大物崩れというのだが、高国陣営に属していた依藤氏に影響が無かったとはとても考えられず、赤松方が息を吹き返したのは自明で、反対に依藤氏は大きな後ろ盾を失って次第に逼塞したようだ。

 この後、依藤氏がこの豊地城からいつ頃に追われたかはっきりしないが、永禄2年(1559)には別所一門の重棟が城主として見える。こうして、東条谷も別所氏の支配するところとなった。

 その後、重棟は天正6年(1578)からの三木合戦において、甥で当主の長治や兄吉親と袂を分かち、織田家羽柴秀吉の軍に投じている。合戦後は、播磨一国を与えられた秀吉が在地豪族の再編成と城割を行い、豊地城も同8年(1580)に廃城となった。

外堀の跡である溜池

 城は、東条川南岸の比高10m弱の河岸段丘の微高地に築かれ、この東条川と東の大畑川、西の中谷川を天然の堀とし、さらに二重の堀で囲った城だったと推測されている。大きさは南北約200m、東西400mの大きさを持っていたといわれるが、現地の碑には東西は200mの規模とあった。縄張の詳細は不明だが、赤松氏の有力家臣だった依藤氏の居城として相応の規模を持ち、また、重棟が城主の時代には瓦葺の建物が建てられていた事が発掘調査から判明しており、当時の播磨において重要拠点のひとつと考えられていたのは間違いないようだ。

 城は、県道85号線沿いにあり、遺構はそれほど多くないが、主郭の南端を構成していたという巨大な土塁が一目で城と解るほど、存在感を持っている。また、この土塁の一部には石積みのようなものもあり、当時のものかは判断できなかったが、かなり大規模な改修を施されていることから考えると、一部が石垣造だったのかもしれない。これ以外にも、みやま保育園の東に外堀を由来とする溜池があるほか、八幡神社東側も高低差があって外堀の痕跡を確認でき、縄張を想像しながら散策するのが面白い城だった。

 

最終訪問日:2021/5/4

 

 

ふとした拍子に城跡の案内を発見し、後でぶらりと訪問しました。

遺構は多くないですけど、立派な土塁が壁のようにあって、際立って存在感がありましたね。

県道に近いのでアクセスが良く、駐車スペースもあるので、気軽に立ち寄れるお城です。