Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

室山城

室山城遠見番所跡にある城址

 瀬戸内の有力な湊であった室津の城。

 室津は、神武天皇の上陸地点として開かれたとの伝承を持つ湊で、播磨風土記に室原泊として登場するほど古代から栄え、行基が整備したと伝わる摂播五泊のひとつ室生泊でもある。室の中にあるように穏やであるところからこの名が付き、古代から瀬戸内の水運で重要な位置を占めていた。

 水運で栄えれば、軍事的にも重視されるようになるのは自明の話で、平家物語にも室山の合戦という戦いが見え、頼朝が室小四郎に命じて湊を見下ろす岡の上に築かせたのが、この城の最初と伝わっている。その後、鎌倉末期には、千種川中流域に勢力を築いた赤松氏が、その河口付近の外港として室津を掌握し、城を再築したようだ。元弘3年(1333)の元弘の乱の際に赤松軍が船坂峠に布陣していることから、この頃には既に室津に城を築いて湊を掌握していたと思われるものの、築城の具体的な時期は判っていない。

 翌年の建武の新政が成った後、大功のあった赤松円心則村は、播磨守護に任命された。しかし、護良親王に近かった為、その失脚の煽りで結局は元の佐用荘地頭の地位に戻されてしまう。こうした中、護良親王と対立していた足利尊氏が、武士の不満を受ける形で建武2年(1335)に建武政権から離脱すると、円心はそれに味方し、尊氏の京攻略に参陣した。

室山城本丸跡

 しかし、尊氏は京を維持することができず、翌年2月には西国に落ちて援軍を募ることとなり、円心は後醍醐天皇の権威に対抗すべく光厳上皇院宣を受けるよう進言したという。その進言した場所は諸説あるが、一説にこの室山での事とされる。

 尊氏を送り出して播磨に残った円心は、白旗城を築いて宮方に対抗することとし、この室山城にも嫡男範資を配したが、数に勝る新田義貞の軍は室山城を陥落させた。そしして、白旗城を包囲して赤松勢を追い詰めたのだが、円心は寡兵ながらよく持ち応えた結果、5月に入ると九州多々良浜の合戦に勝利して勢いを盛り返した尊氏が東上し、逃走や寝返りなどで軍容が衰えてしまった新田軍は、兵を引かざるを得なくなっている。この時、東上してきた尊氏は、この室津に上陸したという。

 この後、5月25日には湊川の合戦が行われ、これに勝利した尊氏が室町幕府を開いた。そして、播磨守護に復帰した円心は、室山城に範資の子本郷直頼、次男貞範の子頼則などの孫達を置いたという。

 室町時代に入り、6代将軍義教の時、円心の三男則祐の孫で赤松家総領だった満祐は、義教と折り合いが悪い上に勢力削減の標的にもなっていた為、貞範の系統で義教に近侍していた貞村を本家当主に据えるのではないかとの疑念を抱き、嘉吉元年(1441)に結城合戦の祝宴と称して義教を自邸に招請し、斬殺してしまった。世に言う嘉吉の乱である。満祐は播磨に帰国し、討伐軍と対峙するが、この時の戦いは摂津や但馬からの侵攻が主で、室山城は主戦場とはならなかったようだ。ただ、満祐の弟義雅は、満祐の従兄弟で義教に近侍していた満政に降伏する際、嫡子千代丸(時勝)を託して自刃し、満政は一時、時勝をこの室津で匿ったという。

二の丸公園と瀬戸内海

 戦後、赤松本家は滅亡し、播磨の守護職山名宗全持豊に与えられる一方、満政は山名氏と争って討死し、貞村も程なく没した為、赤松氏は完全に没落してしまった。この山名氏時代には、室山城の城主として宗全の嫡孫政豊の名が見えるが、政豊は嘉吉の乱の年に生まれており、入城は年齢的に考えて、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱の少し前の時期の可能性が高そうだ。

 応仁の乱が始まると、宗全と対立した細川勝元の応援で時勝の子政則が家臣に命じて播磨奪還の戦いを敢行し、播磨、備前、美作の旧領国を奪回した。この過程で貢献したのが浦上則宗で、以後、浦上氏は守護代として主家をも凌ぐ権勢を得ていくわけであるが、浦上氏は三石城を本拠とし、この室山城も勢力圏に置いたとみられる。

 赤松氏は、政則の代で鮮やかに復活したものの、政則の急死後は赤松氏の古くからの重臣である浦上氏や小寺氏、そして政則が個人的に信頼して台頭した別所氏の、4者が連合した政権となり、播磨は実質的に3分割され、播磨西端から備前、美作にかけては浦上氏の支配となった。そして、則宗の甥の子村宗の時には、村宗の専横によって政則の跡を継いでいた義村、更にその子政村(晴政)との対立が起こり、その過程で義村がこの室津に幽閉されている。

 その後、村宗は享禄4年(1531)の大物崩れで討死し、家督は嫡男政宗が継いだが、天文7年(1538)から翌年に掛けての尼子氏の播磨侵攻に敗れ、一時、堺へ逃れた。同11年(1542)の播磨復帰後、政宗はこの室山城を本拠としたようだが、天文20年(1551)の尼子氏の備前侵攻に際し、これと同盟した政宗に対して弟宗景が反発し、浦上家は分裂してしまう。そして、政宗は宗景と戦うも、敗北を重ねて備前での影響力をほぼ失ってしまい、播磨西端を領すのみとなった。

二の丸公園の高台から本丸方向

 浦上家の分裂後、政宗は、主君の晴政・義祐の父子対立に介入した為、晴政を支援する龍野城赤松政秀の圧迫を受けることとなり、同じく政秀と対立する黒田職隆と婚姻を結ぶものの、永禄7年(1564)正月の婚礼の日に政秀に急襲され、嫡男清宗共々討たれてしまう。また、跡を継いだ子の誠宗も、同10年(1567)に叔父宗景によって暗殺された為、政宗系の浦上氏は完全に滅んだ。ちなみに、室山城の廃城も同時期であるが、史料により、永禄7年(1564)、同9年(1566)、同10年(1567)の説が見られる。

 城は、室津の湊の東側にある標高数10mの丘陵にあり、東は崖となっている要害の地にあった。主郭部以外の縄張ははっきりしないが、ほぼ同じ大きさで丘陵南側の最高部に本丸を、その北側のやや下がった場所に二ノ丸を置き、その周囲を長大な空堀が廻っていたという。

 室津は、御津から相生へと抜ける国道250号線の、七曲りと呼ばれる海岸沿いの部分にあり、室津の市街へ入らず向かって東側の丘陵への道に入ると、二の丸公園という、そのものずばりの公園がある。そして、この公園からやや離れた真南方向の少し高い場所に、本丸があった。地図で言えば、閉校になった旧室津小学校のほぼ真東の半島反対側である。しかし、残念ながら二ノ丸も本丸も、公園名と城址碑以外はこれといった遺構は無かった。

 現在の室津は、古い町並みを残す港町として知られており、その狭い路地と木造家屋が建ち並ぶ様子は、備後の鞆の港町に似た雰囲気があるが、鞆よりももっと鄙びた趣がある。今からでは少し想像し難いが、江戸時代は海路を利用する西国大名の上陸地点となっていて、6軒もの本陣があったという。そのような往時の殷賑さを想像しながら、港町の路地を抜け、城を散策すると、東に開ける瀬戸内の景色も何やら古色があるように見えて、妙に感慨深かった。

 

最終訪問日:2016/10/15

 

かつては賑わった室津にあるお城が、室山城です。

残念ながら明確な遺構は残っていませんが、地形的には城の縄張りを想像できますね。

眼下の海がやたらと印象に残る城でした。