Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

龍野古城

 近世龍野藩の本拠龍野城の後背にある鶏籠山に築かれている為、鶏籠山城ともいう。別名、霞城。

 播磨守護であった赤松氏は、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で没落していたが、家臣の活躍などもあって政則の時に再興された。その政則の庶子といわれる村秀が、最初の龍野城主である。

 村秀は、政則の播磨復帰に尽力した郡代宇野政秀の養子になったというのがかつての定説だったが、別説では、政秀の子赤松貞則の孫、つまり政秀の曾孫とされており、はっきりしていない。いずれにしても、塩屋城に在った政秀の後援で明応8年(1499)に龍野古城が築かれたのは間違いないようだ。また、政秀曾孫説によれば、大永5年(1525)に村秀が貞則をこの城で討ち、赤松下野守家の家督を相続したとされる。

 村秀の子政秀は、武勇に秀で、衰退した宗家当主で従兄弟でも舅でもある晴政を西播磨守護代として支え、宗家家臣筋の浦上氏や小寺氏と争って晴政の復権に尽力し、晴政が子の義祐に追われると義祐とも争った。永禄8年(1565)に晴政が死去すると、義祐と和解したが、本家を凌ぐほどの勢いを見せ、上洛した将軍義昭や信長にも誼を通じている。そして、浦上氏や小寺氏と争ったときの援軍要請が、信長による永禄12年(1569)の播磨出兵へ繋がるのだが、肝心の政秀が小寺氏を攻めた時に黒田官兵衛孝高の奇襲によって大敗してしまい、翌年に暗殺されたとも浦上氏にこの城を包囲されて自刃したともいう。

龍野古城の本丸と城址

 その後、城は政秀の子広貞、広秀と続いたが、天正5年(1577)には秀吉に抗わず城を退去して開城降伏し、後に但馬竹田城主に転じた。広秀が退去したこの城には城代として石川光元が入り、天正8年(1580)以降、蜂須賀正勝福島正則木下勝俊と入れ替わりが激しく、文禄3年(1594)には小出吉政の属領となったが、翌年以降は蔵入地として再び光元が城番を務めたようだ。現地の説明文によれば、この城番時代の慶長3年(1598)頃に、山上の城を廃して麓へ近世城が整備されたという。行政拠点としての機能を重視した、行政官らしい合理的な判断である。

 麓の近世平山城は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に池田輝政の城代として荒尾但馬が入り、池田氏の移封後は、本多政朝、小笠原長次、岡部宣勝、京極高知と続いたが、高知が万治元年(1658)に移封となると、天領となって城は破却された。だが、寛文12年(1672)に脇坂安政が入封した際、現在残っている居館形式の龍野城が築かれ、この城が明治まで続いている。つまり、中世山城、近世平山城、そして陣屋に近い居館形式の3つの城が営まれたということになり、龍野は、姿を変えながら時代に沿った城が築かれた土地であった。

破却されながらも残っている石垣の痕跡

 全体的な歴史としては、中世的な山城から出発し、争乱が治まって政庁的な機能が重要視されるに従い、麓へ城の機能が移されたという流れではあるが、赤松氏時代から平時の居館自体は麓にあった可能性が高い。地図を見ると、詰城のある山と谷筋を挟んでもうひとつの峰があり、峰筋の両腕に包まれるような谷筋がある。これは、中世山城と麓の居館という典型的な組み合わせに最適であることから、麓に整備された近世城は、館の拡張に近い普請であったのではないだろうか。

 城の構造は、山頂に本丸を置き、そのすぐ脇に守護神である八幡宮を祀り、やや下って南東に伸びる尾根筋を削平して二ノ丸がある。二ノ丸から南麓に向かっては、梯郭式に幾重にも郭が設けられ、土塁や空堀も確認でき、石垣の残骸かと思われるこぶし大ぐらいの石が多く見られた。また、本丸の石垣は比較的よく残っているので、野面積と判るが、壊された箇所も多く、麓の築城にあたって資材が持ち出されたのだろう。

 

最終訪問日:2005/10/27

 

 

城への登山道は現在の龍野城から出ているんですが、よく手が入れられており、登りやすかったですね。

山上の郭群の散策もめっちゃ快適。

頂上の本丸からは、揖保川と、まだ紅葉せずに青さが薄れただけの山々が木々の間に見え、晩秋の陽光に映えて清々しかったです。