Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

波賀城

波賀城址碑と模擬櫓

 波賀城を築城したのは、芳賀七郎光節かその一族、もしくは中村光時といわれているが、詳しいことはよく分からない。また、すぐ西の小山にも出城的な砦を築いていたらしいが、古城という地名が残っているので、こちらが初期の城だった可能性もある。

 波賀一帯は、平安時代中頃には伯可荘として岩清水八幡宮の荘園となっており、荘園を開発して八幡宮に寄進した領主か、荘園の管理権などを基盤とした有力者もいたと思われ、それが恐らく芳賀を名乗る一族だったのだろう。

 築城者として出てくる芳賀光節については、名馬伝説なるものが伝わっている。その伝説によれば、波賀城に居していた光節は駿馬を飼っており、その噂が朝廷にまで聞こえ、弘長元年(1261)に勅命によって馬が召されることになった。しかし、光節はこれを惜しんで馬を隠し、それが勅使に発覚してしまった為、命を受けた中村家泰の討伐を受け、滅んだという。この伝説に従うならば、波賀城は弘長元年には存在していたことになる。

復元整備された石垣と模擬櫓

 一方、赤松家関係の史料には、波賀城は中村光時の築城としているものがあり、この光時は、名馬伝説に登場する中村家泰の一族と思われるが、あるいは家泰本人なのかも知れない。また、宍粟郡志によると、光時が赤松則景八代の孫と書かれている。しかし、現在では、波賀城の中村氏は武蔵七党に数えられる丹党の丹治氏の分かれと考えられており、赤松系中村氏とは違う系統と推測されているようだ。この中村氏は、同じ丹党の大河原氏と共に播磨に入部し、後に両家は婚姻や養子縁組などで同一化したという。

 中村氏は、初代光時が波賀城に居して以来、20代吉宗に至るまで波賀城を居城とし続け、光時の孫宗広の譲状や15代時隆の譲状では、三方西という名で波賀一帯が出てきており、本貫の地を守り続けていたと考えられる。ただ、鎌倉時代中期から戦国時代末期までが20代というのは多すぎで、嘉吉年間(1441-44)の頃の当主時隆が15代なのを考えると、南北朝時代から室町時代にかけての系図の信憑性が低いのではないだろうか。早世などで兄弟相続が多かったか、内訌で本宗がはっきりしないなどの理由があるものと思われる。

算木積が未発達な中世的特徴を持つ石垣

 建武政権期から南北朝時代室町時代にかけて、中村氏は赤松旗下の国人として家を保ったが、戦国時代に赤松氏の力が低下すると、小豪族の宿命として、中村氏もより大きな勢力に頼らざるを得なくなった。それは、守護代として勢力を伸ばした浦上家であったり、天文7年(1538)頃に播磨に侵入してきた尼子家であったりしたが、戦国末期になるとその動向はよく分からなくなる。

 秀吉による因幡攻略では、当然国境の波賀城も何らかの影響があったはずだが、史料として裏付けるものがない。また、現地の史料では、最後の当主吉宗の所に天正15年(1587)落城とあったが、もはや九州征伐の頃の話で、とても播磨で戦乱があったとは思えず、何を指してのことか分からなかった。

 城の眼下を通る国道29号線には、国道429号線との分岐付近に波賀城史蹟公園の案内が出ており、案内に従って波賀市民局の方向へ右折し、道なりにもう1度右へ曲がると、あとは案内通りで標高456mの山頂に建つ城まで行くことができる。駐車場や遊歩道はびっくりするほどよく整備されており、学習資料館となっている模擬櫓まで徒歩で10分弱程度だ。

麓からの波賀城遠景

 現地には、城の縄張に関する説明板が無く、地形からしか判断できないが、西側断崖上の模擬櫓の建つ場所が二ノ丸で、その上の社のある場所が本丸だろうか。櫓内の史料を見ると、櫓のすぐ横の石垣が調査の際に残っていたようで、石垣の初期の様式を踏襲して復元し、その上には塀も復元してある。ただ、城の遺構としてはほとんど残っているものが無く、帯郭のようなものも見当たらなかったので、元々がかなり小規模な詰城的城郭だったのだろう。また、遊歩道沿いには、石垣に使われたような大きな石や平坦な地形、堀切のような地形があったが、山城特有の郭の連続性や石垣に使われた角ばっている波賀石の特徴を考えると、平坦地がせいぜい武家屋敷だったかと考えられる程度で、城本体とはあまり関係が無さそうだった。

 

最終訪問日:2008/12/13

 

 

駐車場や遊歩道など、ものすごく整備された城だなと思ったら、どうやらふるさと創生の1億円で当時の波賀町が整備した城らしいですね。

納得がいきました。

登り易い山城の上、眺めも抜群なので、城好きでなくてもかなり爽快な気分が味わえる城です。

とても整備された遊歩道は草木の繁茂もないだろうし、城跡からの視界が開けていて山風の涼風が遮られることもないはずなので、夏の登城も勧められるという貴重な山城かもしれないですね。