Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

撫養城 (岡崎城)

 鳴門市撫養町にある山城で、現地では撫養城と表記されているが、徳島県のパンフレットには、市指定史跡として岡崎城とあり、南西麓の地名から林崎城とも呼ばれる。

 築城の時期は不明だが、将軍足利義稙が撫養で没したというのが史料にあることから、大永年間(1521-28)には三好氏の属城として城はあったと考えられ、城主としては小笠原氏や四宮氏の名が見えるという。

 しかし、戦国後期から安土桃山時代にかけて三好氏の勢力が衰え、さらには長宗我部元親の侵攻によって本拠であった阿波から讃岐に後退すると、長宗我部家臣の真下飛騨守が城主となった。

 天正13年(1585)の四国征伐後、阿波一国は蜂須賀氏に与えられ、蜂須賀氏は本拠である徳島を中心に支城網として阿波九城を整備し、撫養城もそのひとつとして益田正忠が城番となっている。だが、やがて幕府による統制が強くなり、元和元年(1615)の一国一城令寛永15年(1638)の古城破却の命令により、他の支城と共に廃城となった。

鳥居記念博物館として建てられた模擬天守

 ちなみに、徳島藩で支城の廃城が元和の一国一城令より遅れたのは、各地に封じられた重臣の力が強かったためといわれ、2度目の破却命令によって、ようやく中世的な体制に終止符が打たれたということのようだ。

 城のある山を西側から登っていくと、ガレの森美術館があり、横の駐車場から美術館の反対側へ少し階段を上がると、千人溜りと呼ばれる空間がある。この駐車場や美術館、駐車場の上にある展望台は、もともと千人溜りに続く城の郭だった可能性もあるが、遺構などが見当たらず、なんとも判断できなかった。

 そこからさらに上に登っていくと、城内の最高部に立派な模擬天守閣が建っている。この建物は、当初は鳥居記念博物館という、鳥居龍蔵博士の業績を記念して作られた建物であったが、鳥居記念館は移転しており、現在は全くの模擬天守になっているようだ。

城址に建つ妙見神社裏手の石垣は往時のものか

 博物館に隣接する妙見神社は、城主であった四宮氏の子孫と林崎郷の近藤氏が、江戸時代に再興した神社で、この神社の裏手には石垣が残っていた。これが僅かに残った城の遺構かと思われる。標高から考えると、模擬天守が本丸と考えられるため、二ノ丸を構成していた石垣なのかもしれない。

 この石垣は、神社の裏手側のみにあり、反対の千人溜りの側に回ってみても、続いて巡らされていたであろう石垣はないが、この櫓台らしき場所から千人溜りに下りていく獣道沿いに2段に分かれた削平地があり、往時はここにも石垣があったのではないだろうか。また、神社の境内を囲う石垣も、その神社側の端から千人溜りにかけての1段目が、新しく積まれた部分と色が違って明らかに古く、土中に埋没していくことから、城が存在した当時の石垣なのだろう。

 これらの石垣以外には、特に遺構らしきものは城跡に見当たらず、また、説明板も文のみで図などが無かったため、往時の姿や縄張りなどは想像するよりほかなかったが、いろいろ探索してあれこれ考えるには、なかなか面白い城である。城跡からは、鳴門市街や海の眺望は素晴らしく、ただ単純に景色を眺めるだけで非常に心地よいが、同時に、城としての適地に築かれたことを示しているのだろう。

 

最終訪問日:2004/2/25

 

 

訪れた日の天候がたまたま冬晴れの快晴だったので、冷えて澄んだ空気が古城の雰囲気に合い、なかなか良い時間を過ごさせてもらいました。

訪れた時は、模擬天守がまだ鳥居記念博物館だった時代で、何かお城についての資料があるかなと思ったんですが、期待とは裏腹に、記念館に撫養城の資料は全く見当りませんでしたね。