Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

岐阜城

 鎌倉幕府政所執事二階堂行政が、京への抑えとして建仁元年(1201)に築いたのが最初という。岐阜城と名付けたのは信長で、それ以前は稲葉山城金華山城、城下の名から井ノ口城の名で呼ばれた。

 築城後は、行政の子とも娘婿ともされる佐藤伊賀守朝光が城を譲られて城主となり、その子光宗は伊賀を名乗って政所執事になるほど鎌倉幕府に重用されたが、執権北条義時の死後、血縁である北条政村擁立を画策して流罪となっている。

 この光宗から城を受け継いだのは、弟の光資で、城を稲葉山城に改名し、自らも稲葉と名乗りを変えたのだが、この一連の流れは、光宗の叛乱で幕府に遠慮して行われたもののようだ。光資の後は、行政の玄孫で、同じく政所執事となる二階堂行藤が城主となるが、その死後は一旦廃城となった。

 その後、室町時代の応永年間(1394-1428)になって、美濃国守護代斎藤利永稲葉山城を修復し、居城したという。ただ、人物と年代にはずれがあり、再築の年代が正しいとするならば、利永の父宗円(利明)の時代と思われ、逆に利永による再築が正しいとするならば、15世紀中頃の話と考えるのが妥当だろうか。

 利永築城説を考えてみると、15世紀中頃には、前守護代であった富島氏や長江氏の陣営と、土岐氏や斎藤氏の陣営が争っており、利永は、加納にも文安2年(1445)に沓井城を築いている。土岐氏の守護所が、加納城稲葉山城から近い川手にあったということもあり、川手周辺を絶対的な基盤の地として、加納城や詰めとしての稲葉山城で防備を固める意図があったと考えると、再築の目的として理解しやすいが、どうだろうか。

山頂の岐阜城模擬天守

 この利永から稲葉山城を受け継いだのは、弟の妙椿である。妙椿は、守護代を継いだ利永の子利藤を後見しつつも、その力は利藤を遥かに凌ぎ、美濃国内に留まらず周辺諸国や京にまで影響を及ぼす存在で、応仁元年(1467)に始まった応仁の乱では、妙椿は守護土岐成頼と共に山名宗全に味方し、西軍の主力を成すほどであった。

 しかし、その死後は、利藤とその弟で妙椿の養子となっていた利国(妙純)が相争い、斎藤氏は、守護の土岐氏と共に、徐々に勢力を衰えさせて行くのである。

 この、衰退する守護や守護代と入れ替わるように力を蓄えたのは、以前は美濃の蝮こと斎藤道三であるとされた。しかし、隣国近江の六角承禎の文書には、僧であった道三の父新左衛門尉が斎藤家臣の長井氏に仕えてその名字を称し、子の規秀が長井氏の、さらに守護代斎藤家の名跡を継いで斎藤利政と名乗り、やがて守護の土岐頼芸を追放したとある。これにより、かつて道三の事跡とされていたのは、父子2代に渡る物語であったというのが、現在では定説となった。

 その頃の稲葉山城については、頼芸の兄で守護であった土岐頼武を支持する斎藤利茂が維持していたようだが、大永5年(1525)に頼芸を支持する小守護代の長井長弘とその家臣長井新左衛門尉が城を攻め、奪ったという。そして、長弘の死後は新左衛門尉、そして道三が城を引き継いでいる。

 いずれにしろ、道三は出色の武将で、土岐氏を傀儡化して美濃一国を実質的に支配したのだが、この稲葉山城は道三がこの稲葉山城に居したのは、斎藤氏の名跡を継いだ後のようだ。具体的には、天文8年(1539)頃から城の改修工事を行っており、それ以降に本格的に居城したと思われる。そして、それまで中世的な山城だった稲葉山城を厳固な城にし、天文16年(1547)には、城下に攻め寄せた織田信秀の軍を撃退した。

当時の姿を一番留めているといわれる二ノ丸虎口

 道三は、この翌年に信秀と和睦し、娘の帰蝶を信秀の子信長に嫁がせたが、この関係から、弘治2年(1556)に嫡子義龍に長良川の合戦で敗れた際、その陣中で信長宛の譲り状を書いたのは有名な話で、梟雄の矜持が垣間見えるようだ。

 道三の没後、弔いと称して美濃侵入を試みた信長であったが、義龍の在世中は美濃国人衆がよくまとまって手出しができなかった。信長の美濃攻略が本格化するのは、義龍の死後、その子龍興が継いでからである。

 龍興は、国政を蔑ろにしたため、竹中半兵衛稲葉山城乗っ取りや美濃三人衆の離反など、国人衆の支持を失ってようやく綻びが見え始め、信長は永禄10年(1567)、ついに稲葉山城を攻略した。そして、天下布武の旗印として山を金華山に改名し、城下も井ノ口という名前から、中国の周が岐山から興ったことにちなみ、岐阜としたのである。これが、現在も残っている岐阜という地名の始まりであった。

 信長は、この城を居城として、足利義昭を奉じての上洛戦や、信長包囲網に対する戦いなど、忙しなく四方に兵を繰り出したが、天正7年(1579)には近江の安土に独創的な天守を持つ城を築いて移り、岐阜城は嫡子信忠に譲られている。

 天正10年(1582)の本能寺の変で信長・信忠父子が討たれると、道三の遺児といわれる斎藤利堯が城を奪ったが、直後の山崎の合戦で明智光秀が敗れると、利堯は秀吉に降伏し、清洲会議後は信長の子信孝が入って、織田家の名目的な後継者となった三法師を後見した。しかし、信孝も同年末に柴田勝家滝川一益と結んで秀吉に対し兵を挙げたため、討伐されて降伏し、翌年の賤ヶ岳の戦いでも再び秀吉と対立するが、秀吉方に付いた兄織田信雄に包囲され、勝家滅亡後に降伏、自刃している。

麓からの岐阜城遠景

 信孝の後は、池田恒興が美濃を与えられ、その嫡子元助が岐阜城主となっていたが、翌年の小牧長久手の合戦で恒興・元助父子が討死したため、弟輝政が遺領を引き継ぎ、やがて大垣城から本拠を移した。

 輝政の移封後、秀吉の甥秀勝、そして信長の嫡孫でかつての三法師である秀信が城主となり、秀信は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では西軍に属したが、前哨戦として東軍が攻撃した際は、桶狭間の合戦で苦境を打破した信長の頃より籠城は家法に無いとして討って出、敗れて城は落城している。戦後は、落城のために岐阜城の荒廃が激しく、治世の政庁としての要望もあり、南方の加納に城が築かれ、城は廃された。

 岐阜城の遺構は、加納城に用材が使われたため、今はあまり形を留めていないが、所々に石垣が残されているほか、山頂には展望台と資料館を兼ねた天守が建っており、岐阜のシンボルとなっている。この模擬天守は、実は2代目で、明治43年(1910)に建設された初代天守昭和18年(1943)に焼失してしまい、現在の2代目が、戦後の昭和31年(1956)になって再建された。

 戦国の頃から、登城ルートは3つあるとされているが、そのどれも峻険な道が続き、堅城ぶりがよくわかる。その途中に明確な郭跡などはあまり見られないが、往時は全山が城郭化されていたという。

 現在はロープウェイが山頂まで通り、登城は楽になっているが、時間をかけて自分の足で登ってみると、長良川を一望できる眺めや山の峻険さが、ロープウェイで登った時と一味違う感覚をもたらしてくれる。また、麓にも信長時代の居館の石垣や、その下から発掘された斉藤氏時代の中世的な石垣が一部展示されており、こちらも一見の価値があるほど、豪壮なものだった。

 

最終訪問日:2002/11/13

 

 

1度目に訪れた時は、下から登山で散策しましたが、さすがは天下の堅城というほど、道は相当険しかったですね。

そして、模擬天守には時間切れで入れないというおまけ付き。

2度目は懲りて、ロープウェイで楽ちん登城でした。

文明の利器には敵いませんね。