Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

加納城

加納城の本丸石垣と埋め立てられた内堀の跡

 加納城の南東には、室町時代美濃国守護であった土岐氏の本拠革手城があり、加納城のあった場所には、土岐氏の下で守護代を務めていた斎藤利永が、文安2年(1445)に築城した沓井城があった。ただ、城と言っても、主君の守護所の近くに、その規模を上回るような本格的な城があったとは考えにくく、防御力の低い居館形式の城だったと思われる。

 この沓井城には、利永や、その弟で絶大な力を持っていた妙椿が在城し、利永の子で妙椿の養子となった妙純(利国)が城主の頃には、明応5年(1494)3月から石丸利光と対立した船田合戦で包囲されるなど、戦場にもなっているが、永正6年(1509)に土岐氏の本拠が川手城から長良川北岸の福光や枝広、そしてさらに北の大桑へと移っていったため、その存在価値が薄くなり、やがて廃城となった。

 その最終期には、斎藤家の名跡を継いだ斎藤道三が所有していたと思われ、この頃に道三が本拠としていた川手城が、享禄3年(1530)の稲葉山城への本拠移転に伴って廃城になったとされることから、沓井城も同時期に廃城になった可能性が高い。ただ、この移転時期は、道三の史料上の出現時期や稲葉山城の改修時期を考えると、もう少し遅れる可能性がありそうだ。

 それから半世紀以上時代が下った慶長6年(1601)、前年の関ヶ原の合戦の前哨戦で落城、荒廃した岐阜城に代わり、岐阜城や川手の古城、古寺院の資材を用いて家康が諸大名に築城させたのが、この加納城である。

 そして、西国と東国を結ぶ交通の要衝であった岐阜を、家康は娘婿である奥平信昌に任せた。信昌は、あの長篠の合戦長篠城に籠っていた武将である。このことから、家康がどれほど岐阜を重要視していたかが解るだろう。

 この加納の奥平氏は3代で絶家となってしまうのだが、以降も幕府は加納の地を重要と見て、江戸時代を通じて親藩や譜代を配し続けた。奥平氏の後は、大久保氏、戸田松平氏、安藤氏と、異動が激しかったが、宝暦6年(1756)に永井氏が入ってからは安定し、永井氏が6代続いて維新を迎えている。

 城の縄張は、方形の本丸を中心に、東に二ノ丸、北に三ノ丸と厩郭、南に南郭を置き、東から南に掛けて流れていた荒田川を天然の堀とした、5郭で構成される典型的な近世平城だった。また、天下普請で築かれたため、規模もなかなか大きく、二ノ丸には岐阜城天守が移築され、御三階櫓と呼ばれていたという。

 その後の城は、明治4年(1871)の廃藩置県で廃城となり、翌年から同6年(1873)にかけて取り壊され、その年の廃城令によって正式に廃城となった。

 現在は本丸だけが城址公園として残されているのみではあるが、埋められた堀も石垣や道から推測することはできる。城址公園は、すぐ横まで住宅地が迫っているものの、本丸の石垣はなかなかの存在感があり、ただの公園にはない重厚さがあった。また、訪れた時には知らなかったが、付近には二ノ丸隅櫓の石垣が僅かながら残っているという。

 城の周辺は、現在の岐阜市街の外れにあたり、下町情緒十分で、江戸時代の加納宿の雰囲気がまだ残っている。岐阜城周辺は、都市化と観光地化で何かと喧騒があるが、加納城のあたりは観光客もおらず、落ち着いており、城だけではなく旧宿場町の民家などを見つつ散策するのも良いかもしれない。

 

最終訪問日:2001/8/30

 

 

落ち着いた旧市街にある城跡で、石垣が無ければ城跡と気付かないような、いかにも都市公園という雰囲気の城跡でした。

学校跡地や自衛隊の敷地として使われていたからなんでしょうね。

訪れた時は、夏休みの最後を惜しむように子供らが遊んでおり、なんだか懐かしかったです。

夏休みの宿題の苦い記憶も蘇りますが・・・