Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

大津城

 秀吉が、天正14年(1586)頃に坂本城を廃し、坂本城主だった浅野長政(長吉)に命じて大津に築城移設したのが、大津城の最初である。

 坂本城の機能を大津へ移した理由は、秀吉が叡山と和睦した事によって坂本城戦略的価値が薄れた事と、信長時代は、安土城から坂本城経由の山中越えを使って京へ入るルートが主だったが、秀吉が大坂を本拠にした事によって、南西の淀川水系からのアクセスが重視されたため、伏見街道や後には大津街道経由で東海道、ひいては東国と繋がる大津のほうが、軍事、物資両面で重要になったためという。

 大津城の築城後、浅野長政増田長盛、新庄直頼が城主を務め、文禄4年(1595)には京極高次が入城した。この高次の家は、近江源氏佐々木氏の直系である京極氏で、かつては江北の守護であったが、小谷城を本拠とする浅井氏に下剋上されており、高次が生まれたのも小谷城にあった京極丸という郭である。これは、浅井氏が形式的に京極氏を奉戴し、京極氏を自分の本拠城に迎え入れて実権を奪っていたという事情からであった。

 その後、高次は信長に仕えたが、天正10年(1582)の本能寺の変の際には、丹羽長秀の居城佐和山城へと侵攻した武田元明に与し、光秀側に与したため、山崎の合戦で光秀が敗死すると、若狭へ逃れている。だが、高次の妹が松の丸殿として秀吉の側室となっていたことから、秀吉の赦しを得て仕え、後には秀吉の側室淀姫の妹お初を室に迎えるなどして、閨閥絡みで大名にまで出世もした。ただ、このことで、妹や妻の七光りで出世した蛍大名と噂されたという。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際には、高次はこの大津城に籠城して東軍の一端を成したが、それまでには紆余曲折があった。高次は、室と妹によって豊臣家と非常に強い縁があったが、室の妹は徳川秀忠正室お江の方で、徳川方にも十分な縁があり、また、要衝の城主ということで、関ヶ原の合戦前夜には、西軍の諸将に説得されると同時に、徳川方からも書状によって誘われていたのである。

 この状況で高次が下した最初の決断は、西軍に味方するというものであった。理由のひとつとしては、大津城の防御力に不安があったためといわれるが、それでも高次は、西軍の動向を東軍へと流し、どちらが勝っても顔向けできるようには配慮していたという。そして、高次は西軍の一員として北陸方面への軍に従軍したのだが、その途上で突如大津城へと帰り、籠城の準備を始めるのである。

 これを知った西軍は驚き、猛将立花宗茂や毛利元康ら1万5千とも数万ともいわれる兵を派遣して盛んに大津城を攻めたが、僅か約3千の兵が守る城をなかなか抜くことができず、長等山に大砲を引っ張り上げ、城内に砲弾を撃ち込むなどして建造物を破壊し、二ノ丸まで占拠することでようやく9月14日に降伏させた。高次は、翌日に円城寺で剃髪し、高野山へと退去したが、関ヶ原の本戦はその15日の早朝から始まっており、結局、大津城攻城部隊は本戦に間に合わず、高次の大津城が絶好の足止めの役割を果たしたのである。

 この関ヶ原前夜における高次の日和見的な行動は、優柔不断にも見えるが、一方では、弟高知が家康に従軍していることもあり、西軍が勝つことも考えて京極家の存続を図ったのかもしれない。また、遠征を途中で離脱するというのは、かなりリスクを伴うように思えるが、結果的には西軍の計画を大幅に混乱させたのは間違いなく、最初から東軍に味方することを決めていて、行軍を乱すと同時に主力遠征軍を遠ざけて防御力に不安のある大津城へ攻撃が集中するのをできるだけ避けようとした可能性も考えられる。ただ、この辺りは高次自身が後に語らなかったため、どういうつもりであったかは、想像するよりほかない。

 関ヶ原の合戦後、大津城には譜代の戸田一西が入城して城主となったが、長等山から城が見渡せる欠点を嫌ったのか、家康が天下普請の最初として、翌慶長6年(1601)からほど近い膳所膳所城を築城し、城は廃城となった。そして、城の用材は、彦根城天守にこの大津城の天守が移築されたのを始め、各城へと転用されたという。

 現在の城跡は、築城から僅か15年ほどで廃城となってしまったため、市街地化して全く何も残っていない。また、発掘調査の実施も本丸付近に限られたため、本丸の大きさなどはほぼ判明しているものの、城域全体の詳細は分かっていないという。

 縄張は、移設元となった坂本城と同様に水城であったとされ、湖に突出するように北に本丸を置き、南に奥二ノ丸とそれをコの字型に囲む二ノ丸、更にその二ノ丸をコの字型に囲む三ノ丸があり、三ノ丸の北西端を切り離したような伊予丸を合わせた5つの郭で構成されていたと考えられている。復元図を一見したところでは、本丸が湖に出ているためか、奥二ノ丸を中心とした渦郭式の城のような姿をしているのが印象的だ。

 建設工事の際に石垣の一部が出土した場所があり、そこには大津城址の碑が建てられているらしいのだが、周囲を散策した限りでは見つけられなかった。どうやら浜大津駅前の歩道橋のところにあるらしい。ただ、遺構が全く残っていないとは言え、碑だけでも見ないことには訪れたという気にならず、またいつか探索しなければと思う城である。

 

最終訪問日:2001/8/29

 

 

現地に行くと解りますが、城跡はただの市街地ですね。

市街地化したと言っても、堀跡が溝や道として残ってたりするんですが、そんな痕跡すらありません。

ここまで何もないと、逆に清々しいです笑