Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

小浜城

小浜城の小天守台と大天守台石垣

 小浜城は、北川と南川、多田川が集まる地点の三角州の中に、この地に入部した京極高次が築城した平城で、雲浜城ともいう。

 高次は、名門である近江源氏京極氏の末裔で、京極氏は、戦国時代には浅井氏に下剋上され、近江北半国の国主の地位を取って代わられていた家であった。また、高次自身も、織田家臣ながら天正10年(1582)の本能寺の変の直後に光秀側として動いたため、光秀が敗れたことによって没落してしまう。

 だが、高次の妹が松の丸殿として秀吉の側室になり、後には秀吉の側室である淀姫の妹初が高次の室となったため、その縁故によって豊臣政権下では累進した。このことから、七光りで出世した蛍大名とも呼ばれたのだが、その過程で与えられた領地は近江国内ばかりであり、秀吉が近江国の統治に、京極というゆかりある名家の血を利用したという側面もあったようだ。

小浜城大天守台への通路の石垣は谷積に近く後世のものか

 ただ、高次自身は決して無能の人ではなく、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際には、西軍と東軍のどちらに付くか逡巡はしたものの、東軍に味方すると決めた後は居城大津城に西軍の大軍を迎えて一歩も退かず、籠城戦を戦っている。そして、最終的には高次は和睦開城したものの、大津城攻略軍を関ヶ原の本戦に参加させなかったことから、これが家康に評価され、戦後に若狭一国を与えられた。

 若狭に入部した高次は、かつて若狭武田氏の居城があった後瀬山城へと入ったが、中世的な山城で平時の治所としては不便なため、慶長6年(1601)からこの小浜城の築城に取り掛かっている。だが、京極氏は高次の嫡子忠高の時の寛永11年(1634)に出雲松江へ移封となり、城は京極時代には完成を見なかった。

小浜城大天守台の石垣

 京極氏代わって入部したのは、徳川四天王に数えられる酒井忠次を輩出した左衛門尉酒井氏でなく、雅楽頭酒井氏の忠勝である。忠勝は、最終的に譜代でも有数の12万3千5百石を領すほど3代将軍家光に信頼され、中央での活躍に忙しかったが、領地の小浜でも城の縄張を変えつつ工事を続け、寛永11年(1634)に三層三階の天守が、寛永19年(1642)に城全体がようやく完成した。そして、この酒井家が江戸時代を通じて小浜を領し、維新まで続く。

 維新後、城は、明治4年(1871)に近畿から北陸地方までを管轄するために設置された大阪鎮台の第1分営の敷地となり、工事が行われたのだが、その工事中の失火で天守以外を焼失してしまい、焼け残った天守も明治7年(1874)に撤去されてしまった。

小浜城の説明と縄張図

 城郭の遺構としては、本丸と天守台の石垣は残っているが、その他は周辺の埋め立てや宅地化が進んでいて遺構を確かめる事ができない。当時は本丸の周りに内堀があり、北川、南川と外堀に囲まれて二ノ丸、三ノ丸、西ノ丸、北ノ丸があった。

 現在本丸跡地には、酒井忠勝を祀る小浜神社があり、石垣が境内と外を遮断するように存在している。近くには国道も通っているのだが、神社内は静かで古城の雰囲気があり、良い感じだ。神社を囲うように残っている本丸の石垣は、比較的原型を留めており、天守台周辺の石組みは見事で、さすがは江戸幕府最初の大老の城だと言えるだろうか。

 

最終訪問日:2023/10/16

 

 

最初に訪れた時は、散策の時間以上に、昔神戸に住んでたというおばちゃんに話しかけられた時間が長かった・・・

城跡の記憶がおばちゃんに上塗りされて断片的だったので、再訪しました。

しかし、話を打ち切ろうとメット被ってるのに話し続けるって、ある意味スゲェぜ!