Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

後瀬山城

 大永2年(1522)、若狭守護武田元光により築城された、若狭武田氏の居城の山城。ノチセヤマと読む。

 若狭の武田氏は、清和源氏である甲斐源氏嫡流武田氏の庶流である。承久3年(1221)の承久の乱の功で、甲斐守護武田信光安芸国守護職も得、南北朝時代の当主信武も足利尊氏に従って両国の守護職に補任された。

 信武は長子信成に甲斐守護職を、次子氏信に安芸守護職を与え、氏信の子孫は安芸武田氏となったが、その4代信繁の子信栄が足利義教の命で永享12年(1440)に一色義貫を討伐し、一色氏の持っていた若狭守護職を得たのが、若狭武田氏の始まりである。

 信栄の後は、弟の信賢、国信が引き継ぎ、国信の子孫が若狭武田氏となったが、国信の孫元光が後瀬山城を築いた頃には、全盛期を過ぎて若狭支配に陰りが見え始めていた頃であった。築城の背景には、このような情勢の不安定化の要素が少なからずあったのだろう。

 その後の武田氏は、元光から信豊、信豊から義統への家督相続時にそれぞれ内訌があり、有力家臣であった粟屋氏や逸見氏の叛乱などもあって勢力を衰えさせ、隣国越前の朝倉氏の助力でようやく支配体制を維持している状態にまで落ちぶれている。そして、義統の子元明家督を継ぐと、永禄11年(1568)に朝倉義景元明の保護を名分として後瀬山城を囲み、降伏した元明を越前に連れ去って実質的に若狭の大部分を支配した。

後瀬山の案内図

 天正元年(1573)、信長によって朝倉氏が滅ぼされると、越前に連れ去られていた元明は解放されて若狭へ帰国したが、すでに若狭は丹羽長秀に与えられており、しばらくは蟄居状態に置かれ、後にいくばくかの所領を得たに過ぎなかったようだ。

 天正10年(1582)の本能寺の変で信長が横死すると、勢力回復を目指して明智光秀に味方し、近江へ侵攻して佐和山城を攻略したが、山崎の合戦で光秀が敗れると長秀に追討され、自害させられてしまっている。

 朝倉氏滅亡後に若狭を与えられた丹羽長秀は、長浜城と播磨姫路城を本拠にした秀吉や、坂本城丹波亀山城を本拠にした光秀と同じように、若狭を領しつつ近江佐和山城を居城としていたようで、若狭のほぼ中央に位置する後瀬山城も支配拠点として機能したはずだが、現在残っている石垣などの遺構が構築されたのは、領地を得てからかなり経った天正10年(1582)のことという。天正4年(1576)には安土城築城の奉行を務め、本能寺の変の際には本願寺退去後の大坂城番を務めていたことなどから、遊軍的な存在で腰を据えることができなかったためなのかもしれない。

後瀬山城本丸大手の階段と石垣

 長秀は、本能寺の変後に秀吉を支持し、累進して越前の大半と加賀二郡を領したが、天正13年(1585)に跡を継いだ嫡子長重は、警戒された秀吉に統制不足を理由に領地を取り上げられ、越前北ノ庄城から同年にこの後瀬山城主となり、最終的には加賀松任4万石にまで減封されている。

 丹羽氏の後には、天正15年(1587)に浅井長吉(長政)、次いで文禄2年(1593)か翌年に木下勝俊が城主となった。だが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦直前、勝俊は西軍に真っ先に攻撃される伏見城の守備を放棄して退去したため、戦後は改易され、京極高次が代わって小浜に入部する。高次は、一旦は後瀬山城に入ったが、翌年から小浜城を築き、役目を終えた城は廃城となった。

 城は、168mの後瀬山の山頂を本丸とし、そこから延びる尾根伝いに北へ16段、西南へ18段の小郭を配して防備を固め、山麓の小浜小学校辺りに武田氏の居館があったという。現在でも本丸へ向かう途中には小郭が確認でき、石垣や階段が良好に残っている。また、西側には大きく4本の竪堀が掘られ、非常に特徴的だった。

 城へは、国道のすぐ脇にある愛宕神社から登山道が整備されているが、峻険な個所が多く、岩肌が露出しているところも多いので、苔などで滑りやすい。だが、標高がそれほど高くないため、登るのにそれほど苦労はしない山城でもある。

 

最終訪問日:2001/9/13

 

 

昔、国道27号線を何気なく走っていて、後瀬山トンネルという文字を見つけ、おお、ここやん!と強烈に思ったのが今でも記憶に残っています。

信長の野望でもレギュラーの城ですし、後瀬山という漢字も読みも印象的で、不思議と記憶に残る城ですね。