Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

金ヶ崎城

金ヶ崎城跡周辺の案内図

 敦賀湾に突き出た半島の小山に位置する、三方を海に囲まれた海城の山城。読みは、城跡を境内地とする金ヶ崎宮がカネガサキと呼ばれていることから、カネガサキが正しいのだろう。

 築城時期は古く、源平合戦の頃に平通盛木曽義仲に備えて築いた都留賀城が金ヶ崎城だといわれることから、これに従えば、養和元年(1181)から寿永2年(1183)にかけての築城だろうか。

 その後は、気比神宮の大宮司気比氏の城となっていたようで、南北朝時代には、延元元年(1336)に尊氏が九州から東上して入京した際、新田義貞後醍醐天皇の命を受けて尊良親王恒良親王を奉じて北陸に下り、気比氏の当主氏治がこれを城に迎え、足利軍の高師直斯波高経らと戦ったという記述が太平記に見える。

 この時、足利軍は翌年正月から城を攻囲して兵糧攻めにし、義貞は一旦脱出して建て直しを図ったものの成功せず、3月6日に落城した。尊良親王や義貞の嫡子義顕、氏治ら300名余はこの時に自害し、恒良親王はなんとか脱出するも、後に捕えられて毒殺されたという。

 その後、新田義貞が越前を奪回した時に金ヶ崎城を一旦支配するが、足利方が越前を平定すると、越前国守護となった斯波高経の下で守護代を務めた甲斐氏の拠点のひとつとなった。そして、斯波義敏と甲斐常治が対立した長禄合戦の際、長禄3年(1459)5月13日に義敏勢が城を攻撃しているが、甲斐勢によって撃退されている。

 この長禄合戦では、結果として甲斐方に味方した朝倉英林孝景の名声が揚がり、続く応仁元年(1467)からの応仁の乱においては、越前国守護職を条件として孝景は西軍から東軍へと寝返った。こうして越前における斯波氏と甲斐氏の影響力は次第に駆逐され、戦国期には朝倉氏が南方の拠点として支配し、一族の敦賀郡司朝倉家を置いたことから、朝倉家中でも金ヶ崎城は重要視されていたようだ。ちなみに、室町幕府15代将軍になる足利義昭も、流浪時代に朝倉氏を頼って一時ここに滞在したことがある。

 その足利義昭は、越前を退去した後に尾張織田家を頼り、それに応じた信長が上洛を成し遂げ、義昭は将軍職に就くことができた。これにより、信長によって義昭の名で当主義景に上洛要請が出されているのだが、義景はそれに従わなかったため、元亀元年(1570)に若狭経由で越前攻略が始まる。

 この戦いの緒戦は、隣接する天筒山城が激戦の末、4月25日に落城し、援軍の遅れもあって支えるのが不可能だと悟った敦賀郡司家当主景恒は、翌日に金ヶ崎城を開城して退いた。だが、その直後に浅井長政の寝返りが伝わり、信長は遁走ともいえる早さで近習だけを連れて京へ戻ったため、朝倉氏が城を回復している。

 この時、退却を余儀なくされた織田軍の殿軍を秀吉が買って出て退却戦を成功に導き、後に金ヶ崎の退き口と呼ばれるのだが、秀吉は家康と共に一時この城で休息したといわれ、後年天下人となった秀吉がこの時のことを家康に謝したという。ただ、史実としては、退却戦の主力は摂津の池田勝正勢と明智光秀勢であり、家康は退却戦に参加していなかったという説もある。

 城の構造は、現在は南と西が埋め立てられているが、当時は、海に突き出た三方を岩の断崖が囲む天然の要害であった。山中の遺構はあまりはっきりはしない部分もあるが、木戸跡や堀切が明確で、標高86mの最高地は月見御殿といい、この辺りの平坦地が本丸であったとされる。また、登山道周辺には所々に平坦地があり、恐らく小さな郭があったのだろう。もしかすると、金ヶ崎宮も城跡を利用して建てられたものかもしれない。また、廃城年は不明だが、天正11年(1583)から敦賀城の築城が開始されていることから、この年か、織田家が越前を統一した天正元年(1573)頃に拠点の再編で廃城になったと思われる。

 現在は遊歩道で山を一周でき、隣接する城があった天筒山の公園にも繋がっているらしいが、日没で十分に散策できなかった。以前に来た時も日没前後で暗かったイメージがあるのだが、この時間は散歩する地元の方が多く、付近の人にとってちょうど良い散歩コースになっているのだろう。

 

最終訪問日:2001/9/13

 

 

敦賀には2回も泊まってるのに、不思議と明るい時間に行く機会がない城ですね。

いつも薄闇の散策になってしまいます。

なので写真もよく分からないものしか写ってない・・・

1度は明るい時間に行っておかなければ。