Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

燧ヶ城

 交通の要衝を押さえる機能を持った山城で、火打ヶ城とも書かれる。

 城のある場所は、北国街道と木ノ芽峠へ通じる北陸道、そして山中峠への道が交わる要衝で、杣山城金ヶ崎城と並んで北陸の重要な玄関口であったため、古くから城が造られていた。

 「源平盛衰記」には、寿永2年(1183)に木曽義仲が仁科守弘らに命じて「火打が城」を築かせ、義仲に味方する6千余騎が籠ったことが見える。この軍勢に対し、平維盛が10万の軍勢を率いて北上したが、麓の川が堰き止められて湖のようになり、押し渡って攻める事ができなかった。しかし、義仲軍の平泉寺長吏斎明威儀師が寝返って堰の存在を知らせたため、平家軍は堰を壊して城に押し寄せ、兵力の劣る義仲軍は敗れて落城したという。

 また、南北朝時代にも、一帯を領していたと思われる今庄浄慶が北朝方としてこの城に籠り、南朝方の新田義貞に味方した杣山城金ヶ崎城の連絡を遮断する役目を果たしたことが史料に見える。このように、街道を眼下に押さえる城として争奪の的になり易く、歴史の節目節目に登場する城であった。

 だが、戦国時代の城の事跡としては、斯波氏の支配下にあった時には赤座但馬守、朝倉氏の支配下にあった時には魚住景固が城主であったということが知られている程度である。

燧ヶ城本丸跡

 赤座但馬守の名前で史料に登場するのは、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍に寝返った赤座直保の先祖景秋で、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱の頃の人物という。ただ、赤座家が代々但馬守を名乗っている可能性も高く、景秋かどうかの比定は難しい。

 戦国時代後期の城主として見える魚住景固は、朝倉義景の奉行人として知られているが、元亀元年(1570)の姉川の合戦には命に背いて参加せず、天正元年(1573)に織田軍が越前まで侵入すると人質を出して降伏し、領地を安堵された。だが、朝倉旧臣の桂田長俊との待遇の差に不服を覚えて翌年に挙兵した富田長繁に警戒され、会食で招かれた龍門寺城で長繁に謀殺されてしまう。ただ、この一連の流れに燧ヶ城は登場せず、魚住氏の本拠は鳥羽野城にあったようだ。

 この後、長繁は一揆と手切れとなり、家臣小林吉隆に討たれる一方、一揆勢は加賀から本願寺の坊官下間頼照を迎えて一向一揆化し、翌年には越前全体に一向一揆が広がった。

 頼照は、翌同3年(1575)に再侵攻してきた信長軍に対し、木ノ芽峠周辺で防御線を成して抗戦したのだが、その時に籠った城が、この城とも観音寺砦ともいわれる。だが、一揆軍にも内部対立があって足並みが揃わず、10万という兵力を動員した信長軍に敗れ、頼照も高田専修寺派称明寺の門徒に討たれたという。

燧ヶ城より今庄市街を望む

 その後、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦で敗れた柴田勝家が立ち寄ったとされることから、木ノ芽峠栃ノ木峠に対する抑えとして城は維持され、石垣などの設備も整えられていったようだ。

 また、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦時には、今庄の領主として前述の赤座直保が挙げられていることから、直保が居城としていた可能性もある。もし、赤座但馬守が直保の祖である景秋で、直保も城主として在城していたのなら、100年の時を越えて城に復帰したことになるのだが、真相はどうだろうか。

 関ヶ原の合戦後、直保は本戦での寝返りを事前に明らかにしなかったため、功を認められず、改易となった。直保に代わり、今庄は越前一国を拝領した結城秀康が治めたが、国内の要地に重臣を配した際、今庄には重臣が派遣されなかったらしく、城はこの時か、直保が入城していないならばそれまでに廃城になっていたのだろう。

 現在の城跡には、藤倉山や鍋倉山へのハイキングコースが通っているためか、山へと入る道は綺麗に整備され、城跡も散策しやすい。城跡からは今庄市街を一望できるほか、各所に虎口や堀切、石垣などの防御施設が残っており、城跡としてもハイキングコースとしてもなかなか心地良く歩ける。城には大きく3つの郭があり、土橋などはかなり良好に残っているが、規模自体は小さく、川筋に張り出した山の突端部という地形を利用するに留まっており、中世の山城の域を脱してはいないようだ。

燧ヶ城縄張図

 

最終訪問日:2001/9/14

 

 

登山道は非常に整備されていて、登りやすい城でした。

城の構造も割とシンプルで、中世の境目の城という雰囲気があっていいですね。