Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

津幡城

津幡城最高部の物見にある城址

 津幡町の東部には、源平の合戦の一局面として、源義仲と平惟盛が寿永2年(1183)に戦った倶利伽羅峠があるが、惟盛軍が砦を構築して布陣した場所が津幡城とされ、それが城としての最初という。ちなみに、倶利伽羅峠で大勝した義仲は上洛への道が開け、数多くの兵を失った平氏は防戦もままならず、やがて都落ちしていくのである。

 その後、在地豪族で都幡や津旗とも書かれる地頭の津幡隆家が、建久元年(1190)年に本格的な城に修築して本拠にしたと伝わっており、恒久的な城としての歴史は、この伝承が最初のようだ。ただ、津幡氏の支配は史料上に見られるが、城に関しての史料上の裏付けは無いらしく、詳細は不明という。

 この津幡氏は、承久3年(1221)の承久の乱に朝廷方として参陣していたことが見え、以降、史料に登場せず、この乱を境に没落してしまったとみられる。加賀の諸豪族は、源平の争乱の際に義仲に属していたことから、鎌倉幕府の中では傍流で、この事が朝廷方に与した要因のひとつであったのだろう。

津幡城物見全景

 次に城が歴史に登場するのは、南北朝時代で、観応2年(1351)の観応の擾乱の際、足利直義派の重鎮で越中に在った桃井直常を津幡城で富樫氏春が迎え討ち、上洛を阻止したという。ただ、直常自身の動きとしては、京を守っていた足利義詮を攻め、打出浜の合戦にも参陣しており、撃退された後に津幡城を迂回したのか突破したのか、詳細はよく分からない。

 その後、時代が下った戦国時代には、一向一揆が拠点としてしていたようで、天正4年(1576)に上杉謙信能登の七尾城を攻撃する際にも拠点にしたという。その頃の謙信は、一向一揆に対し、かつての対決姿勢から共同して織田氏にあたるという方針へと転換した頃で、恐らく一向一揆の協力があって拠点にできたのではないだろうか。

津幡城説明板

 この2年後の天正6年(1578)に謙信が死没すると、御館の乱という後継者争いもあって上杉氏の勢力が大きく後退したため、越前から加賀を平定して北上してきた柴田勝家が、一向一揆の籠る津幡城を攻略している。

 平定後の加賀は、佐久間盛政に与えられたが、天正10年(1582)の本能寺の変の翌年に起こった賤ヶ岳の戦いで、勝家が秀吉に敗れて滅び、勝家に与した盛政も没落すると、積極的に参戦せずに秀吉に降伏した前田利家に加賀が加増された。そして、越中佐々成政に対する備えとして城も改修を受け、弟の秀継が城主となっている。

 秀継は、天正12年(1584)の末森城の合戦では津幡城に利家を迎え、共に末森城を包囲する成政軍を急襲して功を挙げており、翌年に利家が越中をも領すると、越中木船城へと転じた。そして、津幡氏の没落以降、境の城として機能した津幡城の存在価値は薄れ、廃城になったという。

津幡城の解説と縄張図

 城の構造は、標高約15m、比高10mほどのオオニシヤマという独立丘陵に築かれ、南西の最高部に物見という一角を置き、その北東側に本丸があった。そして、丘陵上には本丸の他に4つの削平地があり、丘陵下部には北から西にかけて腰郭が巡らされ、丘陵東側には出丸のような場所もあったようだ。また、外縁としては、南に津幡川、北から西にかけてと東側に津幡川の支流があり、これらが堀の役割を担っていた。

 現在の津幡城は、丘陵全体が小学校の敷地となっており、物見以外の遺構は失われている。以前に訪れた際は、小学校で何か活動しているようだったので城址碑に近付けなかったが、現在は津幡ふるさと歴史館として物見付近が整備されており、駐車スペースも十分整えられていた。

 遺構が少なく、津幡城は城跡としてはさすがに物足りないが、歴史館には津幡城を始めとした県内の城に関する説明も豊富で、歴史館を含めて城好きとしては満足できる城となっている。

津幡城の主郭部があった学校のグラウンドを物見から見る

 

最終訪問日:2017/5/21

 

 

城跡が学校だと、いつも緊張しますね。

事案に疑われたらどうしようと笑

1度目の訪問は、何か小学校のイベントをやっていたので、遠目に見るだけでした。

そういう意味で、ふるさと館が整備されたのは有り難いですね。