Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

小松城

 梯川を外堀として廻らす平城で、もともと芦原だった湿地帯を切り開いて築城されているため、芦城の別名がある。梯川とそれに付随する湿地が、防御の要となっていたのだろう。

 築城の伝承としては、本願寺配下の武将若林長門天正4年(1576)に築いたというのがあるが、永禄7年(1564)に朝倉義景自ら出陣して小松城を落としたというのが朝倉宗滴話記にあり、伝承よりも前に城が存在していたさ見られる。ただ、具体的にいつ頃の築城かというのは判っていないようだ。

 その後、永禄10年(1567)頃に朝倉氏と一向一揆方が和睦したため、城は空城になっていたか一揆方に引き渡されたと考えられ、天正7年(1579)には、一向衆の籠るこの城を柴田勝家が攻略し、信長は村上義明を城主とした。

 義明は、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦での敗北を機に、勝家の与力から丹羽長秀の家臣、そして長秀の死後は秀吉の直臣、というようにうまく生き残ったのか、入城以来長らく小松に留まり、慶長3年(1598)になって越後本庄へと移されている。

 義明に代わって入ったのは丹羽長重で、長重は2年後の関ヶ原の合戦の際に、前田利長と浅井畷で戦って降伏し、この小松城にも一時、利長が駐屯していたようだ。

 戦後、小松は加賀藩領に編入され、前田家臣で加賀八家にも数えられる前田長種が慶長10年(1605)から城代を務めたが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となり、城としての役目を一旦は終えている。

 その後、加賀藩3代藩主利常の時に、一国一城令の例外として幕府に隠居城としての再築が認められ、寛永16年(1639)から大幅な拡張と改修が施された。これが現在残っている遺構である。ただ、改修が大規模過ぎてほぼ新城築城と変わらない規模となったため、それ以前の城がどのようなものであったか、現在では判らなくなっているという。

 利常は鼻毛を伸ばしていたことで有名な大名で、支藩を含めて石高が120万石という最も大きな大名であったが故に、幕府に対しては加賀藩を警戒させないことに腐心したといわれる。藩の金を武には使わず、工芸美術に惜しげもなく使った豪奢さもその戦略の内のひとつといわれているが、それが副産物として今日の優美な加賀文化を培った。そして、あれだけ外様の城郭普請には厳しかった幕府が、この城の再築を許したという事実が、利常の戦略の成功の何よりの証拠である。

 ちなみに、利常の死後も城は維持され、城番が置かれていたが、財政逼迫もあって徐々に荒廃していったようで、明治6年(1873)の廃城令が出る頃には、すでに城地が田畑として開墾されつつあったらしい。

 現在の城跡は、三ノ丸跡が城の別名にちなんだ芦城公園として整備されているが、遺構らしいものは何も無く、やや離れた小松高校のすぐ横に天守台を残すのみとなっている。この天守台は切り込みハギで造られて反りがなく、ただそこに置かれているような印象ですらあり、芦城公園からも少し離れているためか、訪れる人はまばらのようであった。

 

最終訪問日:2001/9/15

 

 

小松城には2回行ってますが、写真がありません。

なぜならば、雨・・・雨・・・

今は防水のデバイスが多くて安心ですけどね。

早くバックトゥザフューチャーの、自動で乾かしてくれるジャケットが出て欲しい・・・と思ったら、空調服が機能的には実現してると言えるんでしょうね。

知らぬ間に実現してた・・・