Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

墨俣城

 一般に伝わる伝説では、長良川とその支流が入り混じるこの地に、かの秀吉は一夜で城を築いたとされており、一夜城とも呼ばれる。

 永禄7年(1564)に犬山城の織田信清を国外へ追い、尾張一国の支配を確立した信長は、次の目標を美濃に定め、墨俣に橋頭堡となる城の築城を家臣に命じたが、佐久間信盛柴田勝家といった織田家重臣達による築城は失敗に終わった。

 この時、まだまだ身分の低かった秀吉が志願し、長良川周辺の蜂須賀小六正勝などの土豪を味方に引き入れ、上流で木材の伐採と加工を行った上で筏にして流し、現地では組み立てるだけにして一夜で城を築いたとされている。

 だが、実際には、この伝説はあくまで講談の域を出ず、史実かどうかは定かではない。

 墨俣城については、そもそもいつ頃から存在したのかは分からないが、秀吉の築城以前から存在していた。

 時系列で追うと、文明12年(1480)に斎藤利藤が、弟で叔父妙椿の跡を継いでいた妙純と争った際に拠点にしていたことが見え、両者が再び争った船田合戦で敗れた利藤が明応5年(1496)に隠居させられた後、その名跡を継いだ利為が城主となり、さらに妙純の三男で守護代であった彦四郎が、永正9年(1512)に守護の土岐政房と対立して籠ったことが見える。つまり、美濃守護代斎藤氏の城として使われていたようだ。また、妙純にしても彦四郎にしても、尾張織田氏と連携を取っており、尾張に近い城の立地が有効に活用されていたのだろう。

 このほか、信長公記には、永禄4年(1561)に斎藤方だった洲俣城を奪い、信長自身が改修して在城したともある。従って、秀吉による築城が史実であったとしても、全くの新城築城というわけではなかった。

 一方で、秀吉が築城したと書かれている武功夜話では、信長が信清の謀叛のために尾張へ帰る際に破却し、永禄9年(1566)に秀吉が3日間かけて再構築したとなっている。ただ、武功夜話については信憑性に疑問があり、評価が難しい。

 このように、巷間に伝わる秀吉の一夜城伝説については、史実とは言いがたい部分があるが、後の九州征伐小田原征伐でも、一夜城のアイデアが使われていることから、秀吉にとっては重要な成功体験のひとつであったと思われる。実際には、説話に見られるような劇的なものではなかったかもしれず、また、伏屋城にも一夜城の伝承があることから、墨俣城が一夜城ではなかったのかもしれないが、秀吉が短期間で築城、あるいは再築した城というのは存在したのではないだろうか。

 伝承では、秀吉は墨俣城の築城後、そのまま城主になり、稲葉山城攻略でも功を挙げたとされているが、美濃攻略における墨俣城の役割はそれほど大きくなかったようだ。その後の墨俣城は、境目の軍事拠点だけに、尾張と美濃の安定と共に存在価値が薄れ、天正12年(1584)の小牧長久手の合戦の少し前に、大垣城池田恒興の家臣伊木忠次によって改修されたのを最後として、歴史から姿を消している。存在価値の減少で空城になって廃れたか、同14年(1586)6月の木曽三川の氾濫で城地が押し流されたためともいう。

 現在の城跡とされている場所は、河川の氾濫や開発で地形が変わっているため、城跡という地名をもとに推定された場所で、遺構が残っていたわけではない。当時は、境川がその名の通り美濃と尾張の境目となる木曽川の本流であり、尾張から美濃側に入ってすぐの場所であった。

 秀吉の頃の実際の城は、砦に近いもので、天守の登場する時代ですらないが、町のシンボルとしての意味もあって、現在は資料館を兼ねた天守が建てられている。その館内では、秀吉が墨俣の城を建てた様子を、前野家の古文書に拠って再現しているほか、江戸期の墨俣宿に関するものや、薩摩藩による長良川改修の様子も展示されていた。

 模擬天守からは周囲が見渡せるが、河川の入り組む地形は当時から変化はしているものの複雑さは大きくは変わっていないと思われ、攻撃を阻みながらここに築城するには、かなりの苦労があったことが容易に想像できる。真偽はともかくとして、地形の特徴を逆に利用した秀吉の着想は、現地を見るとより興味深い。

 

最終訪問日:1995/8/19

 

 

立派な模擬天守ですが、中には長良川改修の展示もあり、地域の歴史が学べました。

今でもそうですが、昔から川の流れとは切っても切れない土地なんですね。