Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

敦賀城

 天正11年(1583)に蜂屋頼隆が築城した平城で、三層の天守があったという。

 室町時代には、越前守護代であった甲斐氏の拠点が敦賀城と呼ばれていたようだが、これは一般にはこの付近にあった城ではなく、金ヶ崎城のこととされている。

 敦賀城を築城した蜂屋頼隆は、信長の黒母衣衆から出発し、天正10年(1582)の本能寺の変後は秀吉に味方して敦賀を与えられ、敦賀侍従とも呼ばれていたが、天正17年(1589)に子供が無いまま病没してしまい、蜂屋家は断絶となってしまう。このため、代わって秀吉の小姓出身である大谷吉継が城主となり、北の玄関口である敦賀を治めることとなった。

 吉継は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、勝機が無いと予想しながら石田三成との友誼から西軍に与したといい、北陸の関ヶ原と呼ばれる浅井畷の合戦前後に恐るべき智謀を発揮する。

 まず、越前や南加賀の諸大名を巧みに誘って西軍に味方させ、東軍に与した前田利長が南加賀に出陣すると、虚実織り交ぜた情報を流して吉継が海路金沢を衝くよう見せ掛け、それを恐れた利長を撤退に追い込んだ。この撤退の過程で発生したのが浅井畷の合戦であり、利長は襲ってきた丹羽長重の撃退に成功するも、結局は時間のロスが響き、関ヶ原の本戦には間に合わなかったのである。

敦賀城の記念碑

 このように、智謀を尽くして前田氏という巨大な戦力を足止めした吉継であったが、本戦においては、石田隊や宇喜多隊と共に主戦力として奮戦するも、情勢の流れには抗えず、寝返った小早川秀秋らの軍勢によって総崩れにされてしまう。そして、覆せぬ敗勢を自覚した吉継は自刃し、首は家臣の手によって埋められた。ただ、吉継の首は東軍には発見されず、誰が何処に埋めたかというのには諸説がある。

 戦後、越前は家康の次男結城秀康に与えられ、敦賀城はその属城となって清水孝正が城代を務めていたが、孝正は慶長17年(1612)に越前騒動とも久世騒動とも呼ばれるお家騒動によって仙台藩伊達家へお預けとなり、以後は代官が交代して管理した。

 その後、城は元和元年(1615)の一国一城令で廃城となり、敦賀天領を経て小浜藩に属し、城跡には藩主の休息所である御茶屋代官所などが設けられたという。敦賀を冠する藩としては、後に小浜藩支藩としての敦賀藩が成立しているが、この藩は北東の鞠山に陣屋を置いたため、残念ながら敦賀城が城として再築されることはなかった。

陣屋及び敦賀代官所の配置図

 現在、敦賀城のあった辺りは市街化され、遺構はほとんど残っていないが、頼隆によって笙ノ川西岸に築かれた城は、吉継によって大規模に拡張され、水軍を意識した城になったという。この拡張の際に三層の天守も建てられ、笙ノ川から東の児屋ノ川にかけて城下町を整備し、古代より海や北陸から畿内への玄関口であった敦賀を、兵站物流拠点としてさらに機能するようにしたとされる。この辺りは、秀吉政権下で兵站を担当した吉継ならではの発想と言えるかもしれない。

 縄張は、残念ながら判っていないようだが、具体的な場所としては、結城氏時代に代官が派遣されたことが名前のもとになっている結城町から、三島町1丁目付近が城跡とされている。

 城跡を示すものとしては、敦賀西小の角に城跡や奉行所跡、県庁跡を兼ねた碑が建っており、他にも、城門が来迎寺の門として移築され、真願寺に礎石が残っているらしい。地図を見ると、昭和初期に笙ノ川が西へ付け替えられたため、城跡周辺の市街地の姿は大きく変わっているが、運河となっている旧笙ノ川や、真願寺の北側、敦賀西小の裏手、敦賀病院の南などに堀だったと思われる水路が残っており、僅かながら城の姿を偲ぶ事ができる。

 

最終訪問日:2010/10/11

 

 

城跡の痕跡らしい痕跡はほぼ残ってないんですが、周囲を散策してると、なんとなく縄張が想像できる城でしたね。

地図を見ながら、こーかなあーかなと楽しめる城です。