Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

天筒山城

天筒山城南西側の下段から本丸と展望台

 敦賀郡の首城であった金ヶ崎城から峰続きの南東側にあった城で、金ヶ崎城と一体的に機能していた山城。ちなみに、若狭武田氏関係や信長関係の史料には手筒山城と書かれている。

 海岸から北西方向へ向かって海に突き出したところにあった金ヶ崎城に対し、天筒山城は、その陸地側の防衛拠点とも言える場所で、金ヶ崎城の枝城や出城と呼ばれることもあるが、こちらのほうが標高が高く、この地を押さえられると金ヶ崎城は立地的な優位性を失うことから、極地的な戦術的価値は金ヶ崎城よりも高かったのではないだろうか。

天筒山城から金ヶ崎城敦賀

 城が築城されたのはいつ頃か不明だが、南北朝時代金ヶ崎の戦いや、室町時代の越前守護斯波義敏守護代甲斐常治の対立の際にも、この一帯は戦場となったらしく、金ヶ崎城に対する攻撃拠点として、城が築かれる以前からその重要性は認識されていたようだ。

 戦国時代には、越前守護となった朝倉氏の庶流が敦賀郡司を務め、有力な一門となっていたため、金ヶ崎城と共に天筒山城もその支配下にあったと思われる。ただ、若狭武田家の一門で守護代を務めた内藤氏が城を押さえていたという説も見え、永禄11年(1568)に朝倉軍が若狭へ侵攻した際、その先駆けで落城したともいうが、詳細は知れない。

 この城が有名になるのは、元亀元年(1570)の織田信長による越前攻略戦と浅井長政の寝返りによる一連の争乱、つまり金ヶ崎の退き口と呼ばれる戦いの緒戦においてである。

天筒山城見張台の説明板

 元亀に改元して間もない4月25日、近江から若狭に侵入した織田軍は、続いて越前への侵攻図ろうと、その入口である敦賀攻略に取り掛かり、一体的に機能する天筒山城を一斉に攻撃した。金ヶ崎城主朝倉景恒も、天筒山城主寺田采女正を救援すべく出陣し、両軍合わせて数千の死傷者が出たというほどの激戦となったが、結局は数で勝る織田軍がこの天筒山城を攻略する。

 すると、要害の地を奪われた景恒は、朝倉本隊の援軍来着が遅れたこともあって防戦の困難を悟り、翌日に金ヶ崎城を開城して軍を退いた。だが、織田軍優位の状況がここで大きく転換する。突然、信長と同盟していた浅井長政が朝倉側に寝返り、軍を発したとの報せが入ったのだ。

天筒山城北東側下段から本丸方向

 このことを知った信長は、いち早く僅かな近習のみを連れて朽木谷経由で京へ退却し、指示も無いまま主力部隊は越前に取り残されたという。この時、主力部隊の退却戦の殿軍を務めたのが木下藤吉郎秀吉で、明智光秀徳川家康と協力して退却を成功させ、出世の糸口を掴んだといわれている。ただ、これには諸説あり、殿軍の主力を担ったのは摂津の池田勝正だったという説が有力で、家康の参戦も真偽不明であるなど、史実と逸話がこんがらがっている部分もあるのだが、織田軍の壊滅がよぎるほど逼迫した状況にあったのは間違いない。

天筒山東南の峰筋にある堀切と削平地

 天筒山城の築城や廃城時期ははっきりせず、歴史上にはこの越前攻略の時以外、あまり登場しない城である。現在は公園として遊歩道が整備されており、中腹から西へ向かう遊歩道沿いや頂上の北東側には、堀切や土塁、郭といった遺構も残っており、当時の姿を偲ぶことができる。頂上部はかなり整備の手が入って公園化しており、展望台からの眺めはすばらしい。この辺りが、もし当時の削平地をそのまま利用して造られたものであれば、相当な規模の城になるのだが、実際はどうなのだろうか。

 

最終訪問日:2010/10/11

 

 

朝早くに登ったんですが、恐らく日課として登っているであろう方も多かったですね。

毎日登山会とかがあるんかな?

朝日を浴びる敦賀港の眺めが色鮮やかで、秋の早朝の締まった空気もうり、爽快でした。