Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

疋壇城

疋壇城址碑と説明板

 ヒキタと読み、疋田城とも書かれる。また、別名として塩山城ともいう。

 疋田の地は、古代三関のひとつ、愛発関の比定地とする説が有力で、古代から北陸へ向かう際の重要な場所であった。時代が下った応仁の乱の頃、文明年間(1469-87)に疋壇城が朝倉氏の家臣疋田久保によって築かれると、疋田は再び歴史の表舞台に登場してくる。

 疋田氏は、鎮守府将軍も務めた藤原北家魚名流の利仁の裔とされ、利仁自身も越前に所縁があった。利仁の子叙用は斎宮頭を務めて各地の斎藤氏の祖となるが、その孫為延が越前国押領使となり、子孫が疋田に土着したことから疋田斎藤氏を名乗ったという。ただ、疋壇城築城以前からあったはずの、疋田氏の居館や城砦などはよく判っていない。

 疋壇城が築城された文明年間頃の越前では、朝倉英林孝景が応仁の乱に乗じて台頭し、守護代甲斐氏を越前から排除しようと激しく争っていた時期なのだが、城の北にある敦賀守護代甲斐氏の有力拠点のひとつであった。つまり、疋田に朝倉家の影響下にある城が築かれたということは、孝景が敦賀を掌握したということであり、それは、日野川の合戦で甲斐勢が決定的に敗北した文明6年(1474)前後のことかと思われる。

疋壇城最高部の櫓台と思われる石垣と城址

 その後、引き続き疋田氏が城主を務め、城は越前と近江を結ぶ街道を押さえる城として機能した。弘治元年(1555)には、近江国塩津熊谷衆の熊谷平次郎に攻撃されたことが見えるが、城主の景継が籠城で持ちこたえ、落城を免れている。

 だが、元亀元年(1570)の信長による越前侵攻の際には、本城金ヶ崎城敦賀郡司朝倉景恒が降伏したため、籠城していた疋壇城も開城せざるを得なくなり、開城後に織田軍によって破却されてしまった。ちなみに、信長は熊川から若狭に入り、越前へと転じたため、疋田付近を通過しておらず、籠城したとは言っても城で戦闘は無かったはずである。

 この景恒の降伏後、信長はいよいよ朝倉征伐に本腰を入れようとしたのだが、盟友浅井長政離反の報が入り、一転して苦境に陥ってしまう。だが、信長は状況を知るや、家臣に撤退を命じると共に自らは側近のみを連れて朽木経由で逸早く帰京し、残された家臣も苦闘の末に窮地を脱した。いわゆる金ヶ崎の退き口と呼ばれる戦いである。

疋壇城説明板

 織田軍撤退後、朝倉氏は南の備えとして城を修復し、栂野景仍らが城将として布陣したこともあったようだ。その後の朝倉・浅井連合軍の戦いは、姉川の合戦から小谷城攻防まで近江を舞台として行われたが、後の北国街道が未整備だったため、近江への移動はこの疋田を経由したはずで、中継拠点として城も活用されたと思われる。

 天正元年(1573)に入り、武田信玄の病没によって小谷城攻略に本腰を入れた信長に当たるため、朝倉義景は家臣の反発を受けながらも自ら兵を率いて近江へ出陣した。しかし、小谷城周辺での攻防戦では、朝倉軍は大嶽砦において織田軍に敗北し、それを切っ掛けとした越前への撤退中にさらに追撃を受け、刀根坂で大敗北を喫する。

 この頃、城の城主は疋田六郎三郎で、疋壇城を目標に敗走する義景を迎え入れたが、六郎三郎も多くの朝倉家将兵と同じように織田軍の追撃を支えきれずに討死し、城も落城したという。そして、義景は手勢のみとなりながら一乗谷まで辿り着いたが、最後には有力一族の朝倉景鏡に謀られて自刃し、朝倉家は滅亡した。

疋壇城に残る石垣は鉤状に2段ある

 城は、この時の落城で織田軍に徹底的に破却されており、そのまま廃城になったという。後に越前を支配した織田家柴田勝家は、現在の国道365号線にあたる北国街道を整備したため、越前の中心部と近江との行き来に疋田が関係無くなり、重要性が薄れたというのもあるようだ。ただ、戦時の破却であったためか、建物や門などが破壊されただけのようで、石垣などはしっかりと現在でも残っている。

 疋田の集落から城跡の丘陵へと登ると、最初に目に入るのは西愛発小学校跡の平地と北陸本線だ。西愛発小学校が設置されたのは明治時代で、北陸本線の開通は昭和になってからだが、設置の際に遺構の破壊もあったと思われる。特に西愛発小の敷地は本丸と思われるところのすぐ下で、城の削平地をかなり流用していると思われ、相当の遺構が失われただろう。実際、小学校跡の平地へ入る直前にも薮化した段状の削平地があることから、小学校用地のほとんどが城の範囲だったようだ。

疋壇城の石垣跡の北側にも削平地が見える

 小学校跡から一段高く見えるのが疋壇城の本丸で、現在は開墾され、獣除けの電線で囲まれている。この本丸西側に鈎型に石垣が残っており、その西南部に更にもう1段石垣が組まれ、その上に城址碑があった。7mから8m四方といったところで、櫓台だったのだろう。この他では、本丸北東側にも段となっている場所があり、高台を囲うように小学校跡入口すぐ下の段まで繋がっているようにも見える。また、本丸の北側は、かなりの落差がある大きな堀切となっており、この堀切の向こう側にも遺構があるらしい。

 訪れた時は、鉄道を撮りに来たと思われる人が小学校跡のベンチにいただけで、人影が見えず、畑がある割に人の存在感というのが希薄な場所という感じだった。城の散策自体は、獣除けの電線に気を付けないといけないが、それ以外は開墾されているので見通しも良く、非常に快適である。

 ちなみに、集落の入口の人に聞いたところでは、ここ数年、毎年秋に玄蕃尾城からこの疋壇城を経由して敦賀まで狼煙のリレーをやっているとのことだった。ただ、天候によっては狼煙が見えないこともあるそうで、昔の狼煙担当の武士も、苦労していたのかもしれない。

かつての小学校への石段の脇にも城跡の段が確認できる

 

最終訪問日:2010/10/11

 

 

小学校跡ということで、アクセスは非常に良い城ですね。

城の見学も非常に楽だったんですが、すぐ横を電車が通り抜けて行ったのが不思議と印象的でした。

山深い場所なのに、高低なく電車を真横から見たからでしょうか。

ここで写真を撮ったらいい写真が撮れそうです。