Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

北ノ庄城

 越前一向一揆討伐後、信長の命で家臣の柴田勝家が越前支配の拠点として築いた城。

 北ノ庄城の前身としては、越前朝倉氏の庶流が拠点としていた同名の城があった。また、さらに遡った南北朝時代建武5年(1338)に、斯波高経南朝方に対抗して足羽七城という城塞網を構築しているのだが、それに北ノ庄城を入れる説もある。後者の説に従えば、南北朝時代には存在したということになるだろうか。

 朝倉氏の初代広景は、越前守護斯波高経に従って越前に入部し、この北ノ庄城の脇を流れる足羽川下流足羽川日野川と合わさり、さらに九頭竜川と合流した先の、北ノ庄と三国湊の中間辺りの黒丸城を得て拠点としたが、広景が北庄神明神社の社殿を再興したという事績があることから、この頃にはすでに北ノ庄に何らかの足掛かりを得ていたようだ。

 そして、南北朝時代終結後の室町時代の当主である貞景の次男頼景が、北ノ庄に城を築いて居住し、北庄朝倉氏の初代となった。この城は、後に朝倉土佐守館とも呼ばれたようだ。

 その後、斯波氏から越前守護職を奪った英林孝景の代かそれより前に、一乗谷城へと本家の本拠地が移されたため、朝倉土佐守館は、一乗谷から足羽川経由で三国湊へと出る、川筋の交易路を確保する支城として機能したと考えられる。

 この頃の史料としては、延徳3年(1491)に管領細川政元とそれに従う冷泉為広が、北ノ庄で朝倉土佐守と交流したとあり、戦国時代には、前述のように朝倉土佐守館という呼ばれ方をされていることから、当時の北ノ庄城は、防御力のさほど高くない居館形式の城だったのだろう。ただし、この北ノ庄城の位置は不明で、勝家が築城した城の直接の前身であったかはよく分からない。

北ノ庄城想像図

 北庄朝倉氏は、朝倉家中における有力一門として政軍の中核を担っていたと見られ、最後の当主朝倉景行も本家当主の義景に従っていた。だが、天正元年(1573)に近江国小谷城の浅井氏を救援するため、朝倉軍は近江へ赴いたものの、対織田軍の前線の砦が陥落したことから、義景は撤退を決意し、その撤退戦である刀根坂の合戦で散々に追撃を受け、朝倉軍は壊滅してしまう。義景に従う景行も、もちろんこの軍中にいたが、乱戦の中で討死したとされ、朝倉家の滅亡と共に北庄朝倉氏も滅んだ。

 朝倉氏滅亡後の越前は、織田方に転じた朝倉旧臣らに領地が安堵され、北ノ庄には当初、織田家臣の滝川一益羽柴秀吉明智光秀、木下祐久、三沢秀次、津田元嘉が奉行として土佐守館に駐屯したという。

 その後、後者3名が奉行を続けたが、天正2年(1574)には富田長繁が挙兵して館を攻め、3名は館を明け渡して岐阜へと去り、館は長繁の腹心毛屋猪介が守備した。だが、この直後、叛乱軍内部の対立から長繁軍と土一揆衆に分裂し、さらに土一揆が一向衆の大将を迎えて一向一揆へと変化する。そして、猪介の守る館を急襲してこれを奪うと、対する長繁は、北ノ庄奪回を目指して本拠府中の勢力を糾合し、長繁軍包囲を企む一揆勢を討ち、さらに南下してきた別の一揆勢とも浅水周辺で破ったが、その直後に味方の小林吉隆に裏切られて長繁は討たれた。

 このように、長繁を苦戦の末に破り、平泉寺も滅ぼして越前を掌握した一向衆であったが、迎えられたという驕りが首脳部にあったのか、私利私欲に走って内部対立を始めてしまう。そして、これを機と見た信長が翌同3年(1575)夏に軍を派遣すると、僅か数日で組織的な抗戦は崩壊し、一部で根強い抵抗はあったものの、越前は織田軍によってほぼ制圧されてしまった。

露出展示されている北ノ庄城の堀の南面石垣の根石

 平定後、信長は越前8郡を柴田勝家に与え、府中には前田利家佐々成政など俗に言う府中三人衆を入れて勝家の与力とし、ここに勝家率いる北陸方面軍が成立するのである。

 勝家は、居城として同年に北ノ庄城を築城すると共に、北陸を転戦して加賀一向一揆や上杉軍と戦い、織田家の勢力拡大に尽力した。天正10年(1582)の本能寺の変後は、北陸方面軍をそのまま自らの勢力として、明智光秀を討った秀吉と対立したが、清洲会議以降は後手後手に回り、織田信孝滝川一益と組んで秀吉に対抗したものの、翌年の賤ヶ岳の合戦に敗れてしまう。そして、合戦の決着から僅か3日後に、婚儀を上げたばかりのお市の方と共に城へ火を放って自害した。

 勝家の滅亡後、越前の大部分は丹羽長秀に与えられ、北ノ庄城もその属城になったが、翌々年に長秀が没すると、秀吉によって丹羽家の勢力が削られ、堀秀政へと城主が代わっている。秀政が同18年(1590)に小田原の陣中で病没した後は、子秀治が領地を継ぎ、慶長3年(1598)の秀治の越後転出後には青木一矩が入ったが、一矩は同5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属して前田利長と対峙し、本戦の東軍勝利を知って降伏開城した。

 そして、戦後に家康の子結城秀康が越前一国を得て入城し、天下普請で大幅に改修拡張したため、勝家が築城した北ノ庄城の痕跡はほぼ失われることとなる。ただし、北ノ庄の城名自体は、江戸時代の初期まで引き続き使われていたという。

城跡の柴田公園にある柴田勝家

 城は、足羽川吉野川の合流地点付近に築かれ、V字となっている川筋の間に本丸を置き、その北側に郭が続いていた。そして、主郭部西側に城下町が造られ、主郭部と城下町を囲う外堀が足羽川吉野川を繋ぐように扇形に掘られており、所謂惣構えの構造だったようだ。ただ、これは発掘調査や史料の裏付けがあるわけではなく、あくまで推定されている縄張である。柴田神社付近とされる勝家時代の本丸と、現在の福井城の本丸との距離からも解るように、改修によって縄張は相当変えられており、残念ながら往時の姿は想像するしかない。

 当時の史料には、丸岡城のように建物が石葺きであったこと、天守が九重であったこと、城下町の規模が安土の2倍程もあったことなどが記されているが、主君である信長の安土城が最大でも七重と推測されていることから、主君の城を大きく上回るような天守にするとは考えにくく、天守は七層であったと推測されている。

 本丸推定地である柴田神社の発掘調査では、福井城日向門の遺構の下から幅25mの堀や土橋などの遺構が見つかったが、具体的な縄張まで推測出来る遺構ではなかった。現地においては、この発掘された笏谷石の石垣跡を露出展示しており、北ノ庄城の僅かな痕跡を見ることができるほか、北の庄城址資料館にも発掘された遺物が展示されている。

 柴田神社周辺には天守閣の想像復元模型や勝家の像があり、歴史ブームもあって訪れている人が多かった。市街地だけに時間はかかると思われるが、今後の発掘調査に期待したい城である。

 

最終訪問日:2012/5/13

 

 

かなり壮大だったとされる北ノ庄城は、福井城に上書きされた形となっています。

そして、都市化。

なので痕跡は本当に僅かですが、それを辿りつつ往時を想像するのも、都市部の城の楽しみ方のひとつですね。