Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

丸山城

 丸山城は、当時からそう呼ばれていたわけではなく、一帯は殿ノ窪という字で、明治以降の新たな丸山という地名から、この名で呼ばれるようになった。史料では、千鳥ヶ城とするものもある。

 この地に最初に城を築いたのは、平安末期から鎌倉時代初期の武将糟屋有季とされ、その居館があったという。糟屋氏は、藤原北家流の良方の子元方に始まり、元方がこの糟屋荘に土着して武士化したと伝わるが、佐伯氏や武蔵七党の横山党の流れという説もあり、実のところ、出自ははっきりしていない。確実なのは、この糟谷の地に勢力を培っていたという事である。

 そして、築城者の有季は、源平の合戦で頼朝に属して功を挙げ、奥州平定や梶原景時討伐にも従い、御家人として活動した。しかし、室が比企能員の娘だったことから、幕府の権力争いである建仁3年(1203)の比企能員の変に加担して自害している。

 糟屋氏没落後の城の歴史は不明だが、城から出土した遺物には、鎌倉時代から室町時代前半に掛けての物も出土しており、完全に廃絶してしまったわけではなさそうだ。城地は、糟屋荘の政所だったとの説もあることから、有季の一族が変後に京へ移った後も、新たに糟屋荘を得た領主が拠点として利用したのかもしれない。

丸山城中核部北西側の土塁

丸山城中核部南西側の土塁

 次に丸山城が歴史に登場するのは、室町時代後半から戦国時代に掛けてで、扇谷上杉氏の居館だった可能性があるという。

 この居館は糟屋館と呼ばれ、従来は糟屋館で謀殺された太田道灌の墓がある洞昌院付近の上糟屋一帯がその跡地とされてきたが、産業能率大の敷地からは小規模な遺構しか発見されず、決め手に欠ける状態であった。そこへ、丸山城で扇谷上杉氏と関わりが深いと見られる渦巻き紋様のからわけという素焼きの皿が発見されたことから、居館跡の有力な候補地となったのである。

 ただし、渦巻き紋様のからわけと扇谷上杉氏との関わりを否定的に見る説もあり、この辺りは今後の調査が待たれるところだろう。

 扇谷上杉氏は、元は鎌倉の扇谷に居館があったが、鎌倉公方足利持氏が幕府からの独立を図って滅んだ永享10年(1438)の永享の乱や、持氏の子成氏が享徳3年(1455.1)から30年近くに渡って幕府方の上杉一族と争った享徳の乱などの争乱の中で、この糟屋館へと本拠を移したと見られ、文明12年(1480)には既に扇谷に居館が無かったことが知られる。と同時に、武蔵でも当主持朝が長禄元年(1457)に太田道真・道灌父子に命じて河越城を築城させ、軍事的拠点としていた。

 この頃の扇谷上杉氏は、武蔵の河越城と相模の糟屋館をそれぞれの国の拠点としていたようで、争乱に登場するのは圧倒的に河越城が多いのだが、糟屋館でも前述のように持朝の子定正が文明18年(1486)に道灌を謀殺するといった事件が起きている。

丸山城中核部北側の眺め

丸山城に残る横矢掛の折れ

 道灌謀殺の理由については諸説あるのだが、これが伏線だったのか、事件の翌年には道灌謀殺の余波で家臣の支持を失いつつあった定正が、宗家筋の山内上杉顕定との争いを生じ、20年近くに渡る長享の乱へと突入していく。そして、この乱の初期である長享2年(1488)には、糟屋館を落とそうとした山内上杉軍を、城の北側近郊の実蒔原で逆に定正が寡兵ながら奇襲し、勝利を得るなどしている。

 しかし、定正方の劣勢は一向に覆らず、やがて定正は、伊豆の堀越公方の内訌に乗じて同国へ勢力を伸ばした伊勢盛時(北条早雲)に協力を依頼し、定正の跡を継いだ養子朝良もその関係を維持したため、北条氏が相模に次第に足掛かりを得ていくのであった。

 この後、丸山城がいつ頃まで機能したかは不明だが、扇谷上杉氏の勢力が北条氏によって相模から追われた後も、北条氏が城として維持したようで、その証拠に、防塁での横矢掛かりや、空堀で確認された障子状の段差、東海大学病院の敷地にあったという横矢屏風折など、戦国時代末期の防御構造が確認されている。古代に足柄路と呼ばれた東西へ通じる街道を監視する上で、重要視されたのだろう。

 現在の城跡は、非常に整備された城址公園となっているが、往時の城全体としてはもっと大きく、西端は東海大学病院のある上ノ台で、高部屋神社付近を中心として普済寺周辺までの東西1km、南北400mの規模を持っていたといい、地勢的には、歌川と渋田川を天然の堀とし、両川に挟まれた丘陵上にある丘城だった。

丸山城案内板の解説

丸山城遺構想定図

 城内最高部は上ノ台で、その北西の富岡地区からも城郭遺構が検出されていることから、軍事的には西側がより重要視されていたのかもしない。反対に、普済寺北東側では、居住区画だったと見られる遺構が発見されており、城下は歌川周辺にあったようだ。

 現地の遺構想定図を見ると、公園部分は、高部屋神社周辺と堀で区切られた中央部北端の郭だったと思われるが、堀は国道246線の開削で失われており、詳しく追うことができない。とは言え、公園中央は広い削平地となっており、建物跡も検出され、一定の役割を持った郭であったことが判る。

 この郭を囲うようにある下段の平場は、腰郭にも見えるが、往時は郭の土塁のすぐ下が空堀であったため、今見るような幅ではなかった。空堀の幅は北側で6~9m、東西で16mにも達する大きなもので、その幅を差し引くと平場の幅は狭く、腰郭よりも通路のようなイメージが正しいのかもしれない。また、公園には土塁が2ヶ所に残されており、往時は郭をほぼ全周していたという。

 公園が城の一部だけということもあり、見所としては、土塁や切岸、横矢掛かり程度なのだが、扇谷上杉氏ゆかりの糟屋館の可能性があるということで、その辺りを想像しつつ散策するのが、最も愉しいのかもしれない。公園北側に立てば、平地との高低差が意外と感じられ、丘城らしい風景も十分に感じられる城である。

 

最終訪問日:2013/10/13

 

 

もともとは寄る予定にしておらず、地図で偶然見つけて訪れてみたんですが、公園として非常に綺麗に整備されていて、東側には駐車場もあり、ふらっと立ち寄るにしても訪れやすい城ですね。

糟屋館の全容は、まだはっきりしてないんですが、ここが館跡であってもおかしくないと思える規模を持った城でした。