Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

玄蕃尾城

玄蕃尾城解説板

 柴田勝家が、賤ヶ岳の合戦の際に本陣を置いた城で、内中尾山城ともいう。区分としては山城にはなるのだが、城内の高低はかなり少ない平坦な城である。

 天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で信長が斃れた後、同月27日の清州会議で秀吉と勝家が争い、いち早く根回しをして三法師擁立に成功した秀吉が、実質的な後継者へ大きく近付くのだが、一方で秀吉は、勝家に対する懐柔策として、三法師の居城安土城に近く、自身とも縁のある長浜城を勝家に割譲した。

 これにより、勝家にとって越前と近江を結ぶ街道の重要性が増し、難所の木ノ芽峠を避けつつより直線的に南下できる栃ノ木峠越えの改修に着手することとなる。江戸時代の北国街道は、この栃ノ木峠越えの道になるのだが、玄蕃尾城は街道を見下ろす位置にあり、非常に重要な役割を持っていた。

玄蕃尾城本丸

 一般に、玄蕃尾城の築城は、天正10年(1582)から翌年の賤ヶ岳の合戦までの間とされるが、城の重要性を考えると、北国街道の改修拡張に合わせて築いたと考えるのが合理的だろうか。賤ヶ岳の合戦の際に勝家配下の諸将が築いた陣城に比べ、構造の複雑さや充実度合いで玄蕃尾城が抜きん出ているというのも、総大将の本陣という理由だけではないようだ。ただ、築城については異説もあり、天正元年(1573)に浅井氏救援に赴いた朝倉氏によって築城されたとの説や、戦国時代初期に朝倉家臣疋壇久保あるいは在地豪族柳ヶ瀬秀行にって築城されたという説もある。

 前述の清州会議後、信長の後継者の座を賭けた両者の争いは激しさを増し、まずは互いに外交や調略で味方となる勢力を増やそうとした。そして、ひと通りそれが終わると、同年12月には秀吉が長浜城を攻撃し、ついに両者の直接対決が始まる。だが、勝家は雪に阻まれて援軍を出せず、長浜城主で勝家の養子でもある柴田勝豊はすぐに降伏し、親勝家勢力であった美濃の織田信孝も降伏、伊勢の滝川一益も次第に追い詰められていった。

玄蕃尾城北虎口付近の搦手郭

 この状況に痺れを切らした勝家は、翌同11年(1583)2月末にようやく軍を南下させるのだが、改修した栃ノ木峠の街道がまだ雪深かったため、旧来の木ノ芽峠越えを除雪しながら進み、敦賀を経由して柳ヶ瀬に至ったという。こうして勝家軍3万は、3月初旬に玄蕃尾城から柳ヶ瀬付近に陣を布き、呼応するように秀吉軍5万も木ノ本に布陣したが、両者とも歴戦の武将であり、戦の流れを知ってか、開戦することなく睨み合ったままであった。

 だが、4月中旬になると、一旦は降伏した信孝が再び兵を挙げ、秀吉が信孝を討つために美濃へと兵を動かし、情勢に変化が起こる。この均衡の崩れを機と見たのは、勝家の甥佐久間盛政で、勝家の許可を得て大岩山砦の中川清秀を急襲し、清秀を討取ったほか、更に岩崎山砦の高山右近重友を攻撃して後退させたのだった。

 しかし、勝家の撤退命令を拒否した盛政が敵中に突出した状態のまま、秀吉が美濃から僅か5時間で戻ると状況は一変し、盛政は慌てて帰陣を始めるものの追撃を受けてしまう。

 盛政の軍勢はそれでもよく善戦したが、盛政の隊が堅いと見るや、秀吉は同じく帰陣を図っていた柴田勝政の軍勢に旗本までも動員して総攻撃を掛けたのである。さらにその直後、勝家軍の一角を担う前田利家が単独撤退を開始すると、最近まで勝家の与力に過ぎず、戦意の高くなかった織田旧臣の軍勢に波及したため、勝家軍は総崩れとなり、合戦は終結した。

玄蕃尾城東虎口の喰違

 城は、賤ヶ岳の合戦での本陣であったが、毛受兄弟を除いて柴田本軍はこの城を支えとはせずに越前へ退却したので、城での戦闘はほとんど無かったと思われる。合戦の終結後、一気に勝家を滅ぼした秀吉は北陸まで領地を広げたため、存在意義の無くなった玄蕃尾城はそのまま放置され、朽ちていったようだ。だが、この放置が逆に遺構保存には良かったようで、明確に当時の地形が残る結果となった。

 敦賀側からは、かつては北陸本線の鉄道トンネルだったという柳ヶ瀬トンネルの直前の三差路で折れ、登り詰めた車道終点から15分ほど登ると城へと到着する。ちなみに、車道終点からすぐ上の切り通しのような場所は久々坂峠、別名刀根越と呼ばれた場所で、朝倉軍が越前へ撤退する際に織田軍によって大敗北を喫した刀根坂の戦いの一連の戦場のひとつであった。この事だけでも、玄蕃尾城の地理的重要性が解る。

本丸北側の空堀

 城へと向かう遊歩道は尾根筋を通っているが、この尾根筋は幅が10mから20mもあって、やたらと広い。しかも削平地とまではいかないが、平らな地形に近く、林道へ戻る際に城へ向かう人から、まだ城内じゃないんですかと聞かれたほどだ。この区域は軍道とされ、伝承では行市山の盛政の陣まで通じていたという。

 城の構造は、方形の本丸を中心に、大手となる南に細長い武者溜りのような虎口郭を2つ設け、北の搦手にも四分円に近い形の虎口郭を置いており、これら大きく3つの部分で南北に長く構成されている。本丸の虎口には馬出を設け、尾根筋には張出郭や腰郭を造り、本丸北東隅には櫓台を置くなど、戦国末期の成熟した築城術が窺えるのも、この城の大きな特徴だろう。

 実際に城を散策した感じでは、城郭自体はそれほど大きくないのだが、遺構の残り具合が素晴らしく、土塁、空堀といった土の構造物が当時のままかと思われるほどはっきりと存在し、これだけ明確に見て解る山城はそうは無い。ちなみに、秋には当時の様子を再現し、この玄蕃尾城から疋壇城を経由して敦賀まで狼煙のリレーをやっているらしいのだが、実際にどのように見えるのかは気になるところだ。

場外の軍道と見られる平坦な地形

 

最終訪問日:2010/10/11

 

 

事前に調べた所では、城近くまで延びる道は未舗装の林道ということで、途中から徒歩かと覚悟していたんですが、舗装されたようで、なんとかバイクで上り切れました。

バイク乗りとしては、非常に有難いですね。

また、遊歩道を補修して下さっている方がおり、こういう方達が手を入れてくれているおかげで快適に登城できるので、感謝の気持ちでいっぱいになりました。