Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

大野城 (越前大野城)

 大野城というのが他にもあるため、区別して越前大野城と呼ばれることが多い。また、亀山に築かれているので亀山城とも呼ばれることがある。

 戦国時代の大野には、支配拠点として土橋城があり、大野郡の郡司として朝倉景鏡などが居城していた。信長によって朝倉義景天正元年(1573)に滅ぼされた後、信長方に寝返った景鏡も、直後に一向一揆に滅ぼされるのだが、その一向一揆が信長による徹底した弾圧で平定されると、同3年(1575)に、大野郡の3分の2は武功のあった金森長近へ与えられることとなる。

 大野城を築城したのはこの長近で、築城した年ははっきり確定されていないが、この年か翌年のことと考えられているようだ。

 長近は、織田家重臣であった柴田勝家の与力に付けられていたが、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦後は秀吉に降伏し、その一軍として同13年(1585)に飛騨を平定後、高山に移り、やがて小京都と呼ばれる町並みを造った。

天狗の間の位置にある模擬の小天守と大天守を野面積の石垣越しに見上げる

 長近が高山に移った後の大野城は、同14年(1586)に青木秀以(一矩)が城主となり、越前東郷を領した長谷川秀一の属城を経て、文禄元年(1592)からは織田信雄の子秀雄が入部している。だが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、秀雄は西軍に与したために改易となり、大野は戦後に越前一国を与えられた結城秀康の所領として、家臣の土屋正明・忠次父子、小栗正高が城代を務めた。

 その後、秀康の三男で、慶長20年(1615)の大坂の陣で功を挙げて分家していた直政が、兄忠直の隠退によって大野に加増転封となり、大野藩が成立する。そして、大野は弟の直基、さらに同じく弟直良、直良の子直明と受け継がれ、天領を経て天和2年(1681)に土井氏が入部し、土屋氏が維新まで続いた。

 城は、野面積みの石垣に、二層三階の大天守と二層二階の小天守、天狗の間と呼ばれる櫓を連結し、城主の生活空間と防衛機能を重視した本丸のある山上郭と、政庁の機能を備えた東麓の二ノ丸、三ノ丸で構成される山下郭に大きく分けられ、典型的な近世平山城として形式を持つ城である。そして、城を二重の堀で囲い、東には短冊状に区切った城下町を形成していた。

大野城縄張図

 この現在も残る町並みは、長近の頃にほぼ原型が定まっており、同じく長近が整備した、小京都として名高い飛騨高山の街並みの祖型は、この大野にあるとも言えるかもしれない。また、長近は千利休古田織部に師事した茶人としても有名で、戦国時代を生きた武功の士ではあるが、風流人としての、または内政家としての一面が、趣ある城下町に表れている。

 城は、明治6年(1873)の廃城令で廃城となったが、城跡の亀山公園には、現在でも野面積みの石垣が健在で、山をうまく利用した石垣の構成は優美だった。また、昭和43年(1968)には、完全な復元ではないものの、金森氏や土井氏に関する資料館を兼ねた模擬天守が建てられており、城としてそれなりの雰囲気がある。

 この模擬天守からは、城下町も一望でき、また、遊歩道の入り口には搦手門も復元され、夜間には天守のライトアップもあって、江戸時代の面影を残す城下町とともに、町の重要な観光資源となっているようだ。公園の登城ルートは複数あり、江戸時代に使われていた道は急峻だが、新たに整備されている遊歩道はそうでもないので、当時の気分を味わいたい人も、足に自信がない人も、愉しんで散策できる城だろう。

 

最終訪問日:2001/9/14

 

 

竹田城のほうが有名ですが、天空の城とも呼ばれることがある城です。

内陸の盆地だけに結構頻繁に雲海が出るんかな?と思ったら、なかなか難しいみたいですね。

運がよければ、雲海に浮かぶ天守閣を拝むことができるかもしれません。