Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

戌山城

戌山城本丸にある説明板

 室町時代の大野郡の治所となった城。現在の地名が犬山であるため、犬山城とも書く。

 戌山城を築いたのは、越前守護斯波氏の有力庶家である大野家を興した斯波義種である。斯波氏は、祖となった足利家氏が、長子でありながら庶流となったため、足利宗家に匹敵する家格を認められた足利一門で、義種の父高経は、元弘3年(1333)の鎌倉幕府への叛乱である元弘の乱に尊氏と共に参加し、建武政権への尊氏叛乱にも従い、北朝方の越前守護として新田義貞を討ったという室町幕府の重鎮であった。

 義種は、兄で管領を務めた義将から大野郡を任され、その治所として当城を築いたとされるが、兄弟は共に父の後見を受けて守護などの役職を務めており、実際に城が築かれたのは、義将が主体性を持って統治を行うようになった、貞治6年(1367)の高経死後と思われる。あるいは、その前年の貞治の変で父子が失脚して都から越前に下った際、幕府軍を警戒し、国境を固めるために大野郡に義種を配して築かせたのかもしれない。いずれにせよ、高経の死後に兄弟は中央政界へ復帰し、役職を得て都に長く滞在したため、城にはあまり在城しなかったと思われる。

戌山城本丸

 大野斯波家は、最初期こそ加賀などの守護を務めたが、2代満種が4代将軍義持に守護職を剥奪されて以降は守護に返り咲くことはできなかった。それでも、満種の子持種の時に本家で早世が相次ぎ、持種の子義敏が本家を継いでいる。だが、これにより、それまでの家中の主導権を巡る重臣甲斐常治と一門筆頭の持種の家臣同士の争いが、子の義敏が継いだ事で主従の争いとなり、やがて長禄2年(1458)からの長禄合戦へと発展してしまう。

 この戦いは、重臣朝倉英林孝景が与した甲斐方が勝利し、義敏は戦中の失策で将軍義政に家督を剥奪され、後に渋川氏出身の義廉が家督を継ぐ事になる。その一方、勝者の常治も合戦直後に病没してしまい、結果的に功のあった孝景の影響力が増大した。また、以降も義敏と義廉の家督争いが続き、これが応仁元年(1467)からの応仁の乱へと繋がって行く。

 この長禄合戦の際の戌山城の動向は不明だが、当時の城には、持種とその子で義敏の弟義孝が居たと思われる。現地では、持種の次は義鏡とあるが、官途から大野家を継いだ人物のようで、義孝と同一人物だろう。だが、長禄合戦の後は越前の守護が二転三転したため、誰が城を支配したのかはよく分からない。そして、応仁の乱の最中の文明3年(1471)に孝景が東軍へ寝返って越前の領国化を進めて行くのだが、義孝は、文明11年(1479)に京で義敏の子義寛の軍に従っているのが見えており、この頃の城はすでに大野斯波家の手を離れていたようだ。

土橋のある堀切

 また、長禄合戦の結果かどうかは不明だが、斯波氏の一門家臣ながら甲斐氏与党だった千福中務大輔も一時期、城主を務めたという。この武将は、朝倉始末記にも出てくる千福中務入道増源のことで、信憑性に疑問のある始末記では後に孝景に討たれた事になっているが、史実はともかくとして、孝景の大野郡進出で千福氏から孝景に城の所有者が変わったのは間違いないようだ。ちなみに、千福中務大輔は、義敏が家督を継ぐ際に対立して義敏を討ったという話も伝わるが、そのような史実は見当たらない。

 大野郡を得た孝景は、戌山城に弟を入れて大野郡司としたが、その弟は、現地説明板では始末記から経景とし、福井県史では慈視院光玖としている。また、説明板では経景の後を景職、尹景としており、景職は経景の子、尹景は孫八郎の通称から景鏡の事と思われるが、経景や景職は安居城に在ったはずで、説明板の内容は、やや信憑性が低いようだ。

 福井県史では、光玖死後はしばらく大野郡は直轄領になったとし、大永年間(1521-28)頃から孝景の3代後の同名の当主宗淳孝景の弟景高が郡司職にあったとする。そして、景高が孝景との確執で越前を出奔した後は、再び直轄を経て景高の子景鏡が郡司を任されたという。

戌山城には深い堀切が幾条もある

 その後、孝景の子義景の頃には、家中で景鏡が権勢を高め、対織田戦線の総大将を務めたりもしたが、天正元年(1573)に浅井氏の小谷城救援へ赴いた義景が撤退戦の刀根坂の戦いで大敗北を喫し、景鏡の助言でこの大野郡まで退いたものの、景鏡の裏切りで自刃して朝倉家は滅んでいる。

 この景鏡の居城としては、戌山城と亥山城の両説があるのだが、朝倉宗家滅亡後に織田氏に仕えた朝倉一門は、安居城の安居景健を始め城名が姓になっており、土橋を称した景鏡は、土橋城とも呼ばれる亥山城が本拠だったと考えるのが妥当だろうか。ただ、大野郡は飛騨や美濃などに通じる要衝でもあり、要衝の監視防衛拠点として戌山城は維持されていたはずである。

 朝倉氏滅亡後、織田領となった越前は、前述のように朝倉遺臣らが統治したが、翌天正2年(1574)には同じく朝倉旧臣の富田長繁が叛乱を起こす。そして、その叛乱軍内でも内訌があり、長繁は討たれ、一揆勢は一向宗の指導を仰いで一向一揆へと変質していく。このような流れの中、義景を裏切って生き残った景鏡は朝倉家滅亡の張本人として目の敵にされ、景鏡は平泉寺と共闘するが、最終的には平泉寺もろとも敗れて滅んだ。

 こうして越前一国を押さえた一向衆であったが、翌年には織田軍の再侵攻に敗れ、大野郡には掃討に功のあった金森長近と原長頼が入り、とりあえず長近は戌山城に、長頼は亥山城に入ったという。そして、両者で領地の取り決めがはっきりすると、長近はこの年か翌年に大野城を築いて移り、戌山城は廃城となった。

戌山城縄張図

 大野は越前の東側の玄関口であり、今も戌山城付近に国道が多く通っているが、越前大野城を横目に国道158号線から国道476号線に入って西へ行くと、城の用水であったという、みくら清水という泉が見え、そこから登山道が出ている。登山道をしばらく登ると、堀切と郭跡が連続してあり、やがてやや大きな削平地に出るが、ここが北西尾根の郭で、近辺にはロープを伝って登るような深く急な堀切が2条あった。

 ここを越えると頂上部となり、竪堀を擁す円形の本丸とそこから高低差のある二ノ丸が現れる。本丸周辺は竪堀などが施され、福井県でも有数のものらしいが、縄張の形としては割とシンプルで、中世の山城の形を基本に改良を加えたといった感じだ。この頂上部からは、先ほどの北西尾根の他に、南尾根と東尾根にも防御設備を設けているが、北西尾根が最も厳重で、これは真名川、羽生川沿いの北側の街道筋に対する防御が重視されたためだろう。

 訪れた日は快晴で、汗をかきながら登ったが、深い堀切と本丸付近の竪堀は非常に見事で明確に残っており、登るだけの価値がある。城全体を通して眺望が開けていないのが残念だが、部分的には大野城が望める場所などもあり、体を休めるタイミングにもなってちょうど良かった。

戌山城の麓の説明板

 

最終訪問日:2012/5/13

 

 

大野郡の歴史の中では、割と大きな役割を担った城ですが、近くの大野城が観光地として目立っているので、城としては注目度が低いみたいですね。

その分、じっくりと散策することができました。

あまり木や草は刈られていませんが、遺構がはっきり残るいい城です。