Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

一乗谷城

 朝倉氏戦国5代の居城。義景が信長によって滅ぼされるまでの約100年の間、越前支配の拠点であった一乗谷の詰城である。

 朝倉氏は、本姓を日下部といい、但馬国朝倉に住して地名を名字としたのが始まりという。日下部氏は、開化天皇の裔とも孝徳天皇の裔ともいうが、但馬国造の系譜も汲んでいることから、朝倉氏も古代の在地豪族の子孫かと思われる。

 朝倉氏が越前と繋がりを持つのは、南北朝時代で、越前朝倉氏の初代となる広景の時に斯波高経に仕え、戦功を挙げて越前黒丸城の目代になり、守護代の甲斐氏や織田氏と共に、在京する斯波家当主に代わって在地支配を強めて行った。

 一乗谷城が歴史上に登場するのは、7代目の英林孝景の時で、斯波義敏守護代甲斐常治が対立した長禄2年(1458)からの長禄合戦に、孝景は甲斐方として参戦し、常治の子敏光と共に甲斐方の主戦力として義敏方の堀江利真と戦っているのだが、この合戦の際、同3年(1459)かその翌年の寛正元年(1460)に、堀江勢が一乗谷を攻撃して孝景の祖父教景が撃退したとあり、この頃にはすでに一乗谷を本拠としていたようだ。ただ、一説には、南北朝時代にはすでに本拠であったともいう。一方、朝倉始末記には、文明3年(1471)に孝景が築城したとあるのだが、どうやらこれは正しくないようだ。

 この長禄合戦により、孝景の声望は揚がったのだが、合戦終結前後に一方の首謀者であった常治が死去したこともあり、相対的に越前の実力者として朝倉氏の名声がより大きくなったという。そして、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱では、義敏失脚の際に当主となっていた斯波義廉と義敏との家督争いに、再び甲斐氏に付いて義廉方として西軍に属した。

 だが、守護代の地位獲得を狙う孝景は、細川勝元の誘いで東軍に転じ、甲斐氏と激戦を繰り広げて勝利し、ついに越前守護代としての地位を実力で築いたのである。また、この応仁の乱の頃に、荒廃した京から公家や僧侶、学者といった文人一乗谷へ避難してきたため、城下が文化的にも経済的にも飛躍的に発展したという。

 孝景の後は、氏景、貞景、曾祖父と同名の宗淳孝景と続き、朝倉氏は、越前国内だけではなく隣国へも盛んに出兵するほどの勢力となり、一乗谷も、その首邑として大いに栄え、義景の代の永禄10年(1567)には、流浪中の足利義秋も一乗谷に寄寓した。だが、結局は上洛に消極的だった義景を見限り、織田信長の本拠である美濃へと去っている。

 そして、信長が義昭と改名した義秋を奉じて上洛すると、朝倉氏に対しても上洛を要請したが、義景はこれを拒否した。もとより、斯波家中の守護代として同格であった織田家と朝倉家には、越前時代からの因縁もあり、信長の下風に立つことは義景には考えられなかったのだろう。

 これに対し、信長は、元亀元年(1570)に上洛拒否を大義名分として若狭経由で越前への討伐を開始する。緒戦は織田軍優勢で、越前の入口である天筒山城金ヶ崎城を攻略し、軍勢の一部は木ノ芽峠を越えようとしていた。

 だが、この時、信長と姻戚関係にあった江北の浅井長政が朝倉氏に味方し、信長軍の退路を塞いだ。すると、信長は身ひとつといっていいほどの僅かな家臣を率いて朽木谷経由で京へ戻り、追撃してくる朝倉勢に対しては、池田勝正明智光秀羽柴秀吉徳川家康が殿軍として支えたという。これが、俗にいう金ヶ崎の退き口である。

 その後、朝倉氏は浅井氏と協力して信長包囲網の一翼を担うようになるが、同年の姉川の合戦では、浅井氏と共に織田・徳川連合軍に敗れた。この戦いは、両軍共に損害が大きかったが、その後の朝倉軍の活動が萎む気配もなかったことから、朝倉氏にとってはそれほど大した敗北ではなかったようで、比叡山に籠った志賀の陣では信長を窮地に追い込み、有利な条件で和睦している。

 しかし、天正元年(1573)には、織田軍に攻められていた小谷城救援を目的として義景自ら出兵したものの、朝倉軍が守っていた、小谷城の出城のひとつである大嶽城が陥落すると総退却を始め、織田軍の追撃によって大損害を被った。そして、義景は一族景鏡の勧めで僅かな供を連れて一乗谷から大野へと退くが、結局その義鏡の裏切りで自刃し、朝倉氏は滅んだ。

 この時、一乗谷も織田軍によって焼き払われ、3日3晩に渡って燃え続けたという。朝倉氏滅亡後、朝倉家から織田家へ寝返った前波吉継が桂田長俊と名を変えて守護代となり、この一乗谷で統治を行ったが、同じ寝返り組である富田長繁と対立して天正2年(1574)に討たれ、一乗谷はそのまま田野に帰した。

 城の構造は、473mの一乗城山頂上を三ノ丸として、尾根伝いに二ノ丸、一ノ丸を構築し、その下に本丸とされる千畳敷や観音屋敷、物見である宿直などの主要建物が配置されており、全ての郭には竪堀、堀切が無数に施され、堅牢な構造になっている。浅井氏の小谷城も、築城の際に朝倉氏が支援したという話があり、最高所の郭に本丸を置かず、やや下がった場所に大きな削平地があるという構造を見ると、似たような雰囲気を感じてしまうのだが、気のせいだろうか。

 実際に登ってみると解るが、山上は平坦地も多く配されて、さすがに国主クラスの城だと感じられる大きさを持ちつつも、山自体は相当な峻険さで、自分が今まで登ってきた中でもトップクラスの疲労度合いだった。また、近隣の主要な峰には、小見放城や槙山城、三峰城等の出城が築かれており、一乗谷を中心とした一帯全体で防御力を高めている事が解る。

 一乗谷城を詰として、麓には木戸で区画された城下があり、最も栄えた頃には木戸の外にまで城下が広がっていたという。現在も下木戸、上木戸、木戸ノ内町などの地名が残り、近年発掘されて復元された朝倉館や諏訪館庭園、武家屋敷などが往時の姿を偲ばせ、木戸跡の石垣や土塁はその勢力の大きさを物語っている。

 

最終訪問日:2001/9/14

 

 

整備されている麓の遺跡もそうですが、城も相当な規模と構造物と険しさでした。

いや~、凄い城ですね。

ただ、この城で合戦は起こりませんでした。

それは、歴代の朝倉氏の盤石さの表れでもあるし、義景の最期を見ると、結局は設備ではなく人ということの表れでもあるんでしょうね。