Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

細川館

細川館西端の郭は公園となっている

 細川荘を領していた下冷泉家の居館。また、戦国時代から江戸時代に活躍した、儒者藤原惺窩の生誕地でもある。

 冷泉家は、藤原道長の六男長家の流れで、その子孫である俊成が千載和歌集を撰した功によって細川荘を得た。また、俊成の次男は著名な定家で、新古今和歌集新勅撰和歌集小倉百人一首の撰者として知られており、歌道を司った家系であることが解るだろう。

 その定家の子為相の死後、その遺領を巡って争いがあり、為氏は二条、為教は京極、為相が冷泉を家名として家は分裂し、これが冷泉家の創始となった。ちなみに、この遺領争いの際、為相の母阿仏尼が鎌倉へ下った時の日記が「十六夜日記」である。

 この遺領争いの結果、細川荘は冷泉家が継承し、さらに室町時代には上下の2家に分かれ、細川荘は惺窩の出た下冷泉家が継承した。ただ、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱以降、公家の多くは、京が戦乱で荒廃した上に在地豪族らによる押領などもあって経済的に困窮しており、下冷泉家も、荘園の細川荘を守るべく、政為の頃に播磨へ下向したという。その明確な時期は不明だが、応仁文明年間(1467-87)と見られ、この館もその頃に築かれたようだ。以降、その時々で上洛し、御所に伺候する形を採るようになった。

藤原惺窩生誕地碑と像

 その後の館の事績は不明だが、下冷泉家武家化しつつ領地を守っていたと見られる。しかし、信長の勢力が播磨に及び、播磨の最大勢力であった別所氏が信長と対立すると、信長方に立っていた当主為純は、天正6年(1578)に岡村氏ら別所方の急襲を受け、嫡子為勝と共に戦うも敗れて自害し、館は廃絶したようだ。

 永禄4年(1561)に為純の三男としてこの館で生まれた惺窩は、7・8歳の頃までここで過ごしたという。その後は、龍野の景雲寺に入って東明宗旲の下で禅僧として修業していたが、為純が討死した後、母や弟妹を伴って相国寺塔頭普広院の住職だった叔父清叔寿泉を頼って上洛し、その学究において重要な要素となる相国寺に入ったのである。

 こうして、より深く学ぶ場を得た惺窩は、禅と儒学を修めて儒者としての自覚を持った故か、僧名ではなく本姓である藤原氏を称し、後に朝鮮の役の捕虜として伏見に滞在していた儒者姜沆と3年に渡って交流した。 

藤原惺窩の説明板

 こうして惺窩は、近世の儒学を確立していくのだが、時の権力とは一定の距離を持っていたようである。これには、大勢力の争いに巻き込まれてしまった父や兄の姿が影響したともいう。ただ、俗世を全く嫌っていたという訳でもなく、惺門四天王と呼ばれた門下の林羅山を家康に推挙し、林家は幕府の儒官として続いている。

 惺窩自身は、高禄の仕官話を断って洛北の市原の庵にて学問の研鑽に励み、元和5年(1619)9月12日に生涯を終えた。享年59。

 館は、案内としては、惺窩の生誕地として県道85号線に表示されている。立地としては、美嚢川東岸の丘陵地の突端部に築かれた館で、居館とは言え、城郭の性格が強い。この崖を背後に持つ惺窩の生誕地碑の平坦部を含め、東方向に向かって3郭があったらしいのだが、現在は遺構として明確ではなく、周囲と同じく後世に開拓されていたのではないだろうか。

 

最終訪問日:2023/5/4

 

 

細川館を目的としていたのではなく、たまたま近くコンビニで休憩した時に案内を発見し、訪れました。

藤原惺窩が三木城の近くの出身というのは知っていましたが、こんなに近かったんですね。

びっくりしました。