Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

柳田国男生家

柳田国男生家

 日本で民俗学という学問の確立に力を尽くし、民俗学の父とも称される柳田国男の生家。

 柳田国男は、当時の神東郡辻川村、今の福崎町で明治8年(1875)7月31日に、この住宅で松岡操の六男として生まれた。父は姫路で儒者や医者、後には漢学の先生として活動していたが、幕末から明治維新の大変革の時期というのもあって悩みも深かったようで、国男が生まれた頃には神官をしていたという。この神官という父の職業も、神道追究という面で、国男には大きな影響を与えた。また、父も国男と同じく読書が好きで、よく本を借りては読んでいたという。

 この国男の生家は、実際に見ると解るが、確かに小さい。この小さな家に、15歳年上の長兄鼎が家督を継いで嫁を迎え、両親と同居したのだが、狭さ故に嫁姑に諍いが起き、結局、長兄は1年ほどで離縁してしまった。この事も国男に強い影響を与えたようで、民俗的な背景から来る家の構造や、両親及び周囲の人々の判断に対する民族的な素養の無さへの、興味の芽生えになったという。

 国男がこの生家にいたのは10年間で、11歳の時に地元の旧家である三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、翌年には利根川に近い布川で医院を開業した鼎に引き取られ、ここでも医院に離れを提供していた小川家の蔵書を読み耽った。この父親譲りの読書欲が、国男の民俗学への志向を高めたといわれる。

柳田国男生家の説明板

 その後、国男は東京帝国大学を卒業して農商務官僚となり、農業の指導と調査、講演などで東北を中心に全国を歩いたことが、より一層の民俗学への傾倒を強めることになったようだ。大正8年(1919)に官を辞した後は、研究者としてはずっと民間に在り、徹底したフィールドワークの実行と、民俗学という学問の確立に尽力し、昭和37年(1962)に没した。享年87。

 国男の生家は、元々あった辻川から、現在は辻川山公園に移築されており、内部を見学できる。間取りは、4畳半が2間と3畳が2間しかなく、江戸時代中期の一般的な農家の大きさとは言え、二世帯が同居するには、さすがに狭小だ。

 だが、後年に国男本人が「私の家は日本一小さい家」だと語っているとともに、「この家の小ささという運命から私の民俗学への志も源を発したといってよい」とも書き残しており、この生家の狭さが、国男の研究意欲の根源のひとつであったのは間違いなく、人間が興味や志向を抱く際、何がそのきっかけになるのかは本当に分らないものである。

 

最終訪問日:2020/9/23

 

 

福崎の町は、柳田国男にちなみ、妖怪が座るベンチや妖怪に関するものが町のあちこちに設置されています。

辻川山公園もそのひとつで、カッパや逆さ天狗などの機械仕掛けの妖怪がいました。

生家もその一角にありますが、そこまで足を延ばす人は少なかったですね。