Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

峯城

峯城二ノ丸の腰郭らしき削平地にある標柱

 築城は、関盛政の五男政実によると伝えられ、築城年代は、南朝方年号の正平年間(1346-70)、または北朝方年号の貞治6年(1367)という。

 政実は、この城を築いて峯を称し、峯氏の始祖となるのだが、そのきっかけは、父盛政が南朝方の北畠氏に従って北朝方の伊勢守護仁木義長の討伐に功を挙げ、鈴鹿郡河曲郡を恩賞として得たことによる。盛政は得た土地を子供5人に分知し、これらが神戸氏や峯氏といった関の五家と呼ばれる有力庶家となった。

 この後、室町時代から戦国時代にかけては、峯氏は宗家に従っていたようだが、勢力を伸ばして宗家と対立した神戸氏ほど史料に多く出てこず、盛定などの名が散見される程度で、動向はあまり鮮明ではない。伊勢峯軍記には安成、安政、広政といった名が見えることは見えるのだが、これにも他の史料と系図が全く合わないという問題がある。

峯城解説板

 永禄10年(1567)と翌年の信長による伊勢侵攻では、峯氏は神戸氏など関一族と共に信長に臣従し、神戸氏の養子となった信長の三男信孝の与力となった。その後、天正2年(1574)の伊勢長島攻めで、城主であった八郎次郎盛祐が討死し、弟与八郎盛治が幼少だったため、峯城は岡本良勝に与えられ、事実上、豪族としての峯氏は滅んでいる。

 天正10年(1582)の本能寺の変で信長が横死すると、直後の山崎の合戦で明智光秀を討った秀吉が事実上の後継者の地位を得、信長の子供達や織田家筆頭家老であった柴田勝家、秀吉を毛嫌いする佐々成政らと対立した。そのような情勢の中、信長の子である信孝や信雄の領地であった伊勢は、これらの争いに否応無く巻き込まれることとなる。

 同年6月の清洲会議の後、秀吉と勝家は互いに外交戦で各地の勢力を取り込み、11月の一時和睦を挟んで、冬には岐阜城に在った信孝が反秀吉の兵を挙げた。秀吉は素早く岐阜城を包囲して信孝を降伏させたが、年明けには今度は滝川一益が挙兵し、秀吉方に寝返っていた良勝を城から追って周辺の城と共にこの峯城も占領する。

竹林と化している二ノ丸

 一方の秀吉は、勝家が雪で出陣できない間に決着をつけるべく伊勢へと出陣し、この城も秀吉の甥三好秀次らの部隊が包囲したが、一益の甥である城将滝川益重の奮戦で40日以上も落ちず、兵糧攻めでようやく降伏開城させた。

 その後、峰城は伊勢の領主となった織田信雄の属城となり、佐久間信盛の子正勝(信栄)が城主となったが、天正12年(1584)の小牧長久手の合戦の際に秀吉方に攻撃されて落城し、正勝は尾張に敗走している。落城後、城は廃城になったとも良勝が復帰したともいわれるが、良勝が現在の亀山城を築いた天正18年(1590)以降、廃城となっていたのは間違いない。

 城は、安楽川と八島川の合流点に向って突き出した丘陵上にあり、本丸と二ノ丸を主郭として広い削平地を確保し、伝承では本丸西側に天守も備えていたという。また、本丸北側にはいくつかの小規模な郭を擁し、更に北には独立した出丸があったようだ。

峯城縄張図

 訪れた時は、遠くからでも見える案内板から、山裾に沿って奥へ進んだところに城址を示す杭があり、そこから城へ登ったのだが、天守台西側の帯郭らしき細長い平坦地や、本丸南側の二ノ丸は竹薮だったので散策できたものの、本丸と思われる部分は杉の幼木がちょうど人の身長程度の高さに成長しており、常に中腰での移動を余儀なくされる状態で、散策は厳しかった。そのような状況のため、天守台にあると伝わる石垣を探し当てることもできず、本丸北側の郭群へも辿り着けなかったのだが、立派な解説板があっただけに、惜しい城である。

 城のすぐ下の農家の方から聞いた話によると、城の南西側は堀があるわけでもなく、防御力に乏しかったため、城主が戦時の際にマムシを放ったという伝承が伝わっているという。実際、今でもマムシが多く生息しているとのことで、伝承は実話だったのだろう。毒蛇を放ったというのは、中世の城跡ではちょくちょく聞く伝承だが、それをリアルな危険を伴う話として実感したのは初めてだった。

 

最終訪問日:2007/10/25

 

 

農家の方と城に行くという話をした時に、これで地面を叩けばマムシが逃げるからと棒を貸してくれました。

つまりは、ほんまに危ないんやなと・・・

そりゃ城を守る方も必死なんで、使えるものは何でも使いますよね。