Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

神戸城

 神戸はコウベではなくカンベと読む。他に同じ漢字でゴウドなどと呼ぶ場所もあるが、いずれも神社の領する土地や神社に仕える神人の住む土地であったことからの名である。この神戸城周辺は、伊勢神宮神領であったためという。

 この地に城が築かれたのは、天文年間(1532-55)や弘治年間(1555-58)という説があり、現地案内板には1550年代とある。築城者としては、神戸氏当主の具盛や利盛の名が見られ、世代的に天文年間の初期から中期であれば具盛、天文年間末期から弘治年間であれば利盛ということになるが、地元の教育委員会作成の案内板には利盛とあった。また、具盛という諱は第4代と第7代の当主が使っているが、7代目の方は友盛とも書き、築城者説のある具盛は楽三具盛とも書かれる。

神戸城址碑と天守台石垣

 神戸氏は、亀山付近を本拠としていた桓武平氏流関氏の庶流で、南北朝時代の関盛政の時、長子盛澄がこの神戸城からやや南西の沢城に住み、神戸郷から地名を名乗ったのが最初という。以降は関氏の一門衆として活動していたが、3代為盛の時に嗣子がおらず、室の実家である北畠氏から養子を入れた。これが前述の4代楽三具盛である。

 具盛は、養子という身ながら家中をよく治め、神戸氏の勢力拡大に尽力し、子長盛の代には宗家である関氏に匹敵する勢力を持つようになった。しかし、関氏側から見れば、強すぎる庶家が惣領の邪魔になるのは致し方ないところで、長盛は関氏と対立して戦い、血縁となっていた北畠氏と誼を通じている。

 長盛の跡は子利盛が継ぎ、利盛が早世した後は弟友盛が家を継承し、長野氏などと争いながら神戸氏は伊勢の有力国人で在り続けた。しかし、永禄10年(1567)には、尾張に勃興した信長が伊勢へ侵攻してきたため、存亡の危機に立たされてしまう。

神戸城解説板

 この戦いでは、神戸領内の諸城を次々と抜きつつ南下する織田軍に対し、神戸方は高岡城で山路弾正が戦線を支え、美濃での不穏な情勢に対応すべく織田軍が撤退するまで持ちこたえている。しかし、翌年早々に織田軍が再び伊勢へ侵入すると、友盛は、勝つことの困難さを悟り、織田家と和睦して信長の三男である三七丸、つまり後の信孝を養子に迎え、織田傘下に入ることを決めた。しかし、入嗣した信孝と不和であった友盛は、元亀2年(1571)正月、義兄蒲生賢秀がいる日野城で信長の命によって幽閉されてしまうのである。

 これにより、神戸城は完全に織田家の城となり、天正8年(1580)には信孝が大改修を施して五層の天守も築かれた。そして、2年後に本能寺の変が起こると、清洲会議を経て信孝は岐阜へ移り、信孝の異父兄という小島兵部少輔が城主となっている。

 信孝が後継者争いで組んだ柴田勝家滝川一益が、同11年(1583)に秀吉に敗れると、同年に信孝は兄信雄に岐阜城を攻められて降伏し、小島氏の神戸城も信雄の家臣林正武の攻撃で開城降伏した。

西側から神戸城内堀と本丸

 開城後、そのまま神戸城主となった正武は、子の十蔵に友盛の娘である信孝の室を娶らせ、父子共に神戸姓を名乗ったが、今度は秀吉と信雄が不和となり、翌年に秀吉の圧迫を受けて城から逃亡し、秀吉の家臣生駒親正が領すこととなる。そして、秀吉と信雄が和睦すると、その交渉に奔走した信雄の家臣滝川雄利が同13年(1585)に封じられた。

 この後、小田原征伐終結した天正18年(1590)から4年間は水野忠重に代わったが、この頃に雄利は信雄の家臣から完全に離れたようで、忠重が神戸から三河国刈谷に戻ると、再び雄利が神戸を領している。また、これと同時期の文禄4年(1595)に神戸城の天守桑名城に移され、神戸櫓になったという。

 大名として神戸に復帰した雄利であったが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属し、改易となってしまった。代わって入ったのは一柳直盛で、寛永13年(1636)まで領したが、直盛転封後の15年間の天領期間には、城の建物の多くが破却されてしまっている。だが、慶安4年(1651)には、石川総長の入部で神戸藩が再興されて3代領し、天保17年(1732)からは本多氏が維新まで7代136年の間、藩主として続いた。

神戸城天守台の上部

 城の縄張は、方形の本丸の北から東にかけて二ノ丸を置き、その主郭部分の東西南の3方向を三ノ丸や馬場が囲うというシンプルなもので、近世に大規模な改修の手が入っていないため、信孝時代からあまり変わっていない縄張なのだろう。

 現在は、天守台を中心に公園化されているものの、明治6年(1873)の廃城令で廃城となった後、同8年(1875)に破却され、二ノ丸跡付近が神戸高校の敷地に転用されるなどしており、天守台と申し訳程度に残っている内堀以外には、城の痕跡は少ない。だが、公園は閑静な住宅地の中にあるため、古城の静かな趣というのは不思議と保たれていた。

 

最終訪問日:2007/10/25

 

 

城跡は神戸公園として整備されていますので、駐車場もばっちり。

国道からも近いですし、車で行きやすく、地味に便利な城ですね。