Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

亀山城 (伊勢亀山城)

亀山城址碑と多聞櫓

 この亀山には、文永元年(1264)に平実忠が築城した亀山古城があり、実忠はその城を本拠として関氏を名乗ったという。その子孫は周辺に庶族を分立して勢力を蓄え、南北朝時代南朝に属し、戦国時代には同じ南朝方であった伊勢国司家の北畠氏に仕えつつ、六角氏とも誼を通じる半独立の家臣であったようだ。

 信長の伊勢侵攻時の当主盛信は、信長に対して幾度か抵抗と降伏を繰り返したものの、やがて完全に臣従した。しかし、関氏の庶流神戸氏に入嗣した信長の三男信孝と不和であったため、天正元年(1573)に信長によって亀山城から室の実家である蒲生氏の日野城へと追われ、亀山城は信孝の属城となったようだ。

 その後、天正10年(1582)に信孝が四国征伐の総大将になると、盛信は勘気を解かれて亀山城へ復帰したが、同年の本能寺の変後は秀吉に接近した。翌年になると、秀吉陣営と柴田勝家滝川一益織田信孝の対立が顕著になるのだが、盛信・一政父子が亀山城を留守にしている間に、一益の支援を受けた関家臣岩間氏が城を奪い、これを知った秀吉が蒲生氏郷などを派遣して城を奪い返すなどしている。

 この後、盛信・一政父子は蒲生氏の与力となり、天正18年(1590)の蒲生氏郷会津転封に従って陸奥白河へ移った。そして、関氏に代わってかつて信孝の家老を務めていた岡本良勝が峯城から入城し、新たに築いたのがこの近世の亀山城である。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後には、西軍に与した良勝は切腹させられ、西軍から東軍に転じた一政が再び亀山へ復帰したが、一政は10年で移封となり、東海道の要衝ということもあって家康の孫である奥平松平家の忠明が入城した。その後、忠明が大坂の陣後の復興を担って摂津へ移ると、天領を挟んで三宅氏を始め、本多氏、石川氏、板倉氏、大給松平氏、板倉氏と目まぐるしく変遷したが、延享元年(1744)に石川氏が入部し、維新まで続いている。

 城の縄張は、石垣が残っている本丸の辺りから、東の亀山西小や市役所の敷地となっている二ノ丸、その東の三ノ丸と続き、本丸の西には西出丸、その南には西ノ丸があった。

 しかし、明治6年(1873)の廃城令で建物などが取り壊され、他の敷地への転用も進んでしまっており、アスファルトが敷かれている部分が多かったり門跡が標柱だけだったりと、城跡としてはやや味気なく、現在も残っているのは、多聞櫓のある天守台と、公園池や池の側という堀の跡が主なもので、遺構はそれほど多くない。ただ、部分的には土塁なども残っており、本丸と西出丸を区切る堀切などは、なかなかのものである。

 天守については、築城当初に三層の天守が建てられていたが、江戸時代初期の段階で早くも解体されてしまったという。これについては、丹波亀山城の補修の命を受けた堀尾忠晴が誤って解体し、そのまま再建が許されなかったという珍しい逸話が伝わる。

 明智光秀丹波亀山に築城した時、同名の伊勢亀山と紛らわしいので亀岡に改名したといわれるが、江戸時代初期まで亀岡の地名は浸透していなかったようだ。また、忠晴という人物は武人肌の人物であったといい、細かいことを気にするタイプではなかったようで、それが災いしたのだろう。

 この解体の後、本多俊次が改修した際に天守跡へ多聞櫓が建てられたが、これが今残っている唯一の建造物で、三重県でも城郭建造物としては唯一のものである。ちなみに、若山城とも呼ばれる戦国末期までの亀山古城はここではなく、すぐ近くの若山辺りがそうであったというが、案内板には特定されていないとあった。二ノ丸や三ノ丸の発掘調査で戦国末期の空堀が見つかったこともあり、今後の調査と研究が待たれるところである。

 

最終訪問日:2001/8/28

 

 

天守が誤って解体されるなんて、それはそれは悲運の城です。

茂助はん、どんだけ早とちりやねん・・・