Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

大河内城

城内に建てられた大河内合戦四百年記念碑

 北畠氏の一族である大河内氏の居城。

 応永22年(1415)に、伊勢北畠氏の初代顕能の孫満雅が阿坂城に籠城した際、満雅がこの城を築いて弟顕雅を入れたのが最初という。満雅の挙兵自体はその前年で、挙兵の原因が、同19年(1412)に南北朝合一後の両統迭立が守られずに称光天皇が即位した事であるため、同19年から同22年までの間に築城されたと見るのが妥当だろうか。

 この満雅の叛乱は、最終的に満雅が敗れてはいるのだが、幕府軍も攻めきれず、降伏ではなく和睦という形が取られ、北畠氏は存続した。しかし、称光天皇崩御した後も北朝系の持明院統である後花園天皇が即位したため、満雅は再び叛乱を起こし、正長元年(1429.1)に討死してしまう。

大河内城解説板

 これにより北畠氏は再び存続の危機を迎えるのだが、この危機の際、顕雅が幕府側との交渉に奔走し、また、幼かった満雅の子教具を後見して北畠氏を建て直した。この顕雅の働きがあったことにより、北畠氏は戦国時代まで名を残すことができたのである。

 その後、顕雅は大河内を名乗ってその始祖となり、以降の大河内家は本家から幾代か養子を迎えたこともあって北畠一門随一の格式をもって遇され、大河内城も大河内御所と呼ばれた。やがて、猛将として名の通った親泰が出た後、大河内家も世襲が続くようになるのだが、最有力の一族としての地位は変わらず、星合家を輩出するなどしている。

 戦国時代も終盤に差し掛かる永禄年間(1558-70)後期に入ると、尾張で勃興した信長が伊勢への侵攻を開始し、同11年(1568)頃には中伊勢までの諸豪族を降す。そして、当然のことながら南伊勢の北畠氏にも目を向け、翌永禄12年(1569)に南伊勢の攻略を開始した。

大河内城本丸

 この織田軍の侵攻に対し、北畠氏の当主具房の父で、実権を握っていた具教は、大淀城に大河内氏を移して自らこの城に入り、城に改修を施して対抗する構えを見せたが、有力な一族である木造氏を継いでいた具教の弟具政が早々に織田方に通じるなど、形勢は不利で、やがて領内諸城を抜かれ、大河内城も包囲されてしまう。だが、大河内城自体は堅く守って落ちず、2ヶ月の籠城戦を戦い抜き、最終的には信長の次男信雄に娘を娶らせて具房の養嗣子とすることで和睦したのだった。

 この和睦は、いわゆる城下の盟と呼ばれるもので、和睦の体ではあるが、織田氏の血縁の者が送り込まれたことにより、いずれ北畠家が乗っ取られることを意味する。実際、信雄は、天正4年(1576)に具教を謀殺すると同時に具房を幽閉して北畠家乗っ取りを完遂し、大名としての北畠氏の嫡流は途絶えてしまった。さらには、同10年(1582)の本能寺の変以降は北畠姓をも捨て、織田姓に復している。

大河内城二ノ丸

 また、北畠氏ゆかりの城であった大河内城も、乗っ取り完遂と同時期である天正3年(1575)か翌年に田丸城へと本拠が移されて廃城になっていることから、織田氏流北畠氏の確立と人心一新を図るため、新たな拠点として田丸城が用意され、北畠嫡流の色が残る大河内城は政治的な面から廃城になった可能性が高い。逆説的に考えれば、織田家の勢力が強くなったことで相対的に具教・具房父子の家中における影響力が低下し、暗殺や廃城という手段が取れるようになったとも言えそうだ。

 城は、比高数10mほどの山に築かれ、西の最高部を西ノ丸とし、そこから防御のためにまむしを放したというまむし谷から続く堀切で区切ったすぐ東側に本丸を置く。本丸の東には御納戸を挟んで二ノ丸があり、本丸の北東方向にはかなり広い馬場が設けられているが、二ノ丸と馬場は本丸から5m程度の落差があり、御納戸はそれよりも更に低くなっている。

本丸より高い位置にある西ノ丸

 この本丸、二ノ丸、西ノ丸、馬場、御納戸という5つの郭が主郭だが、本丸の北側や西ノ丸の北側に腰郭らしき削平地が確認できるほか、縄張図を見ると、北の尾根筋の突端部には櫓を置いていたようだ。また、整備された登り口は二ノ丸に通じているが、これは搦手にあたり、櫓のあったとされる北側が大手らしい。御納戸や馬場は整備されておらず、入って行くのは諦めたが、この馬場の広さや、本丸の南から西ノ丸に掛けて続く断崖を見ると、籠城戦での実績が示すように、標高の割に防御力は高かったのだろう。

 1度目の訪問では、どっぷりと陽が暮れてしまったために場所の確認だけしかできなかったが、2度目の訪問で城の散策をすることができた。1度目は暗くて解らなかったが、国道166号線沿いの駐車場に説明板が建てられているので、大河内の集落さえ分かれば城を探して迷う事も少なそうだ。

 

最終訪問日:2012/6/3

 

 

城の標高は高くないですし、大河内地区市民センターの前に駐車場もあるので、散策に出掛けやすい城ですね。

堅城でもあるし、気軽に登れて城の雰囲気を味わえる、なかなか良い城でした。