Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

岸和田城

岸和田城模擬天守

 別名千亀利城ともいう。

 岸和田城の起こりは、建武元年(1334)に和泉守護となった楠木正成の族党和田高家が当地に代官として赴任し、その治所として築城したことに始まるという。ただし、一次史料からは、岸和田治氏という武将が、その当時に勢力を持っていたことが窺える。

 前述の高家にまつわる伝承では、当時は一帯を岸と呼んでいたが、和田氏が治める岸という地名を指してのことか、岸の和田氏という領主を指してのことか、時代を経て岸和田という地名が定着し、和田氏自身も岸和田と名乗りを変えたという。ただし、この城は、現在の城から東南方向の野田町辺りにあったとされる岸和田古城のことと伝わる。

 楠木氏と共に南朝に味方して衰えた岸和田氏の後、岸和田周辺には新たに和泉守護となった山名氏清信濃泰義を入部させた。この泰義が、やがて現在地へ城を移したといわれるが、その年代は不明で、泰義入部の永和4年(1378)かそのしばらく後と考えられ、一説には応永年間(1394-1428)ともいう。

 以上が岸和田城築城の伝承であるが、発掘調査からは、岸和田古城が15世紀末頃に築かれた事が判明しており、これに従うと、岸和田城の築城は、古城が廃されたと見られる16世紀初頭以降まで遅れることとなる。つまり、諸々の伝承は、すべて発掘調査の結果とは違っており、岸和田城の築城者が実際に誰だったかというのは、不明というほかない。

 伝わる事績としては、信濃氏の後、和泉守護細川家が7代続き、その間には、明応9年(1500)に和泉上守護の細川元有と同下守護の細川政久が畠山尚順に攻められて討死し、城も落城しているのが見える。この直後、管領細川家の家臣赤沢朝経が奪還し、元有の子元常が和泉守護家を継いでその居城となったが、管領家家督争いである両細川の乱の影響で、細川高国側である細川高基と細川晴宣が守護として在城したこともあったようだ。

 このような内訌の影で、その没落後は、松浦盛から史料に登場してくる守護代の松浦氏が代々城主になっていたようだ。ただ、実際に現岸和田城の城主として確認できるのは、戦国中期の松浦万満の代で、辛うじてその父の守の頃から城主だったかと推測できるに過ぎないという。

 この頃の城は城館に近い形状であったらしく、現在の二ノ丸を本丸とし、その近くまで海が入り込み、海を防御の要とした海城に近い城であった。また、細川家臣であった三好長慶の台頭後、その弟である十河一存が永禄元年(1558)頃に万満の後見として城に入ると、海上経由で淡路や四国と連携の取れる要衝として重要視され、同じく弟であった三好義賢によって改修が施されたようだ。

本丸の復興大手櫓門と野面積の石垣

 その後、城の近くで起こった永禄5年(1562)の和泉久米田の合戦で義賢が討死して三好勢が敗れると、城を守っていた長慶の弟安宅冬康は退去し、勝利した畠山高政に与した細川晴貞が一旦入城したが、すぐに三好勢が奪い返し、松浦虎、次いで松浦肥前守光なる人物が城主になったという。この虎や光なる人物の詳細は不明で、光は通称が万満と同じであることから、万満と同一人物かも知れない。

 いずれにせよ、守護代の松浦氏は、永禄11年(1568)の信長上洛のしばらく後には没落してしまっており、次の岸和田城主としては、松浦家臣だった寺田生家・松浦宗清の兄弟の名が見える。俗説によれば、寺田兄弟が下剋上によって城主になったともいう。

 この寺田兄弟の後は、清州三奉行の流れである織田一門の織田信張や、家臣である堀秀政、桑山重晴、蜂屋頼隆などが城番を務めたが、天正10年(1582)の本能寺の変後に畿内を掌中に収めた秀吉は、敵対する根来寺に対する抑えとして、翌年に中村一氏を入城させた。そして、同12年(1584)には、城周辺で一氏と根来衆などが対決した岸和田合戦が起こっているが、落城は免れている。

 その後、城は翌年の紀州征伐の拠点としても使われたが、本格的に現在のような城郭を整備したのは、秀吉の叔父小出秀政で、紀州征伐直後に岸和田に封じられてから築城と城下町の整備を開始し、慶長2年(1597)には天守閣を完成させたといい、これによって近世城としての岸和田城を完成させた。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、秀政は大坂城に在城し、長男吉政と四男三尹は西軍として活動したが、次男秀家が家康に付き従っていたため、その功で一族は赦され、岸和田城も安堵されている。その後は吉政、その子吉英と続き、豊臣氏滅亡後の元和5年(1619)に但馬国出石へ転封となった吉英に代わって松井松平康重が入部し、寛永17年(1640)には岡部宣勝が入部した。この岡部氏が維新まで続くのだが、親藩譜代大名を配していることから、幕府は商都大坂の南の拠点として重視したようだ。

 維新後、城は明治6年(1873)の廃城令で廃城となり、破却された。現在は、本丸と二ノ丸が城跡として残るが、その東南北を二重に囲むようにあった二ノ郭、三ノ郭は市街地化しており、遺構は見られない。本丸には、文政10年(1827)の落雷で焼失した天守が昭和29年(1954)に資料館として復興されたが、往時の五層に対し現在は三層で、約10mほど低くなっている。天守閣を囲む城壁や多聞櫓門も昭和45年(1970)に復元され、内部は郷土資料館として活用されているが、有名なだんじり祭りの時は双方とも休館となるのが、岸和田らしいところだろうか。

 

最終訪問日:2003/4/26

 

 

模擬天守が往時より小さくなっているのは残念ですが、野面積の石垣と白亜の天守が絶妙に映える城ですね。

形を変えた模擬天守というのは華美でイマイチな城が多いですけど、これだけバランスが良いと、模擬天守も悪くないですね。