Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

狭山陣屋

狭山陣屋跡の碑

 狭山藩の政庁だった陣屋。

 狭山陣屋の周辺には、かつて南北朝時代に池尻城があったようだが、この城は戦国時代には放棄されていたという。また、狭山池の南側には半田城があったらしいのだが、これも詳細は不明で、目ぼしい事跡が見られない。つまり、狭山が首府となるのはこの陣屋ができてからのことであり、それ以前の狭山の様子はあまり明確でないというのが実情のようだ。

 この陣屋の主である狭山藩主の北条氏は、あの関東の後北条氏である。天正18年(1590)の小田原征伐で滅ぼされた北条氏は、完全に滅び去ったわけではなく、主に強硬派だった一族と重臣らが切腹となった以外は、高野山に入って蟄居の身となっていた。そして、翌年には当主氏直が家康の婿であることから赦免されて1万石の大名として復活しているほか、小田原征伐に至る過程で主に外交窓口となっていた穏健派の氏規も赦され、当初は2千石、後に7千石の知行を宛がわれて狭山城主となっている。

 だが、この狭山城というのが狭山陣屋の前身なのか、それとも別の城なのかは、現地案内板などにも記載が無く、史料を探してもよく分からなかった。狭山一帯を与えられたが、城主という格が与えられただけで城を持たなかったのかも知れず、また、江戸時代の蔵米知行のような形で狭山7千石が与えられたのかもしれないが、実際はどうだったのだろうか。

狭山陣屋解説板

 大名として復活し、小さいながらも北条家を再興した氏直であったが、同年末には病没してしまい、北条家の家督は、氏規の子氏盛が氏直の養嗣子となって継いだ。この時、氏直の遺領の内、4千石の相続を許されている。一方、氏規のほうも、関ヶ原の合戦の直前である慶長5年(1600)に没しており、氏盛はこの遺領を合わせ、1万1千石の大名となった。氏盛は、同年の関ヶ原の合戦で東軍に投じたことから、戦後に所領を安堵されて狭山藩の初代藩主となり、以降は北条家がこの地で維新まで続き、陣屋は明治6年(1873)に廃城令によって廃されている。

 狭山藩の政務は当初、氏規の使っていた大坂の屋敷で執り行われていたようだ。陣屋を造営したのは、氏盛の嫡男氏信の時で、元和2年(1616)のことである。陣屋は上屋敷下屋敷に分かれているが、狭山池の北東側にある上屋敷は氏信の嫡男氏宗が、狭山池東側の下屋敷は江戸時代中期の5代氏朝の時に造られたという。

 現在の陣屋跡は、残念ながら住宅地などの開発によって遺構と呼べるものが全く無い。周辺を散策してみたが、大阪狭山東小学校から100mほど北の上屋敷跡に、小さな公園と碑が建っているのが、陣屋跡を示す唯一のものと思われる。また、下屋敷の跡地も、第二次大戦前から狭山遊園という遊園地の敷地となっており、更に遊園地の閉園後は再開発された為、現在ではただの新興住宅地となっていた。

 ほかの都市部の城跡もそうなのだが、都市化で仕方がないとは言え、もう少し遺構が残っていれば、と思う陣屋である。

 

最終訪問日:2008/11/19

 

 

狭山池からすぐの場所にあります。

狭山池も、日本最古の灌漑用貯水池で、狭山池博物館の展示は充実していますから、どちらも一緒に見て回って欲しいですね。