Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

林田陣屋

林田藩陣屋跡の碑

 元和3年(1617)、建部政長が林田藩初代藩主となって移封されたことにより、前身の窪山城という平山城を改修して築かれた陣屋。窪山城は、室町時代に林田一帯を掌握していた赤松家臣谷沢国氏が築城したという。

 窪山城が存在した頃の赤松氏は、家の再興を果たして中興と呼ばれた政則が急死し、養子であった義村が相続したものの、まだ幼く、政則の室であった洞松院や赤松家宿老による合議によって家中が運営されていた時代である。どの大名の歴史にも同じような状況が出てくるのだが、実権を持たなかった幼主が成長すると、自らに権力を集めようとするのが自然な流れで、義村もまた、それを目指した。

陣屋復元図

 この動きにより、義村と激しく対立したのが宿老筆頭の守護代浦上村宗で、永正15年(1518)には出仕停止を受けて居城三石城に退去してしまうのだが、村宗の姻族で、窪山城の国氏を影響下に収めていたという衣笠村氏もこれに同調し、義村に叛旗を翻したのである。

 こうして、窪山城の国氏も赤松軍と戦うことになったのだが、城は永正16年(1519)に落城し、国氏は降伏したという。同年は、三石城の村宗も赤松軍に包囲されていた年で、最も義村に優位な年であった。しかし、この後に村宗が盛り返し、やがて義村の嫡子才松丸を擁立して義村を強制的に隠居させることとなる。

 この後の窪山城の詳細は不明で、三木氏の居館が在ったという。その後、慶長20年(1615)の大坂の陣において、縁戚であった池田氏の指揮下で挙げた功により、郡代を務めていた尼崎城でそのまま藩主として取り立てられていた建部政長が、前述のように新たに入部して陣屋を構えた。また、この時に、窪山を聖岡と改めている。

現地説明文

 建部氏は、元々は近江出身の豪族で、戦国時代は六角氏に属していたが、寿徳の時に織田家に仕え、代官や吏僚として活躍したようだ。信長の没後は秀吉に仕え、その管理能力を買われて尼崎城で蔵入地3万石の差配をし、同時に築城や検地の奉行も務めたという。政長は寿徳の孫にあたり、政長以降の藩主も外様ながら幕府に重用され、伏見奉行などの奉行職や二条城在番などを務め、この陣屋から動くことなく維新を迎えた。その後、陣屋は明治6年(1873)の廃城令で廃されている。

 陣屋は、丘陵の最高部の削平地を本丸とし、そこからやや下がった東側に次段を、更に一段下がって南側に馬出のような一角を設けた3郭構成で、前面には水堀があったようだ。ただ、絵図等は残っておらず、現地の地形からの推測である。

公園の南面に残る石垣

 陣屋跡があるのは林田中学校北側の丘陵で、国道29号線の林田交差点を西に折れ、城下町の道らしい鈎状に曲げられた道を林田出張所を過ぎて北に曲がると、突き当りが陣屋跡で、周囲には数台の駐車スペースがあった。陣屋の主郭部である丘陵の上部は公園化されていて、これといった遺構は見当たらないのだが、東端には櫓跡と思しき高台があり、また、丘陵南面には石垣がしっかりと残っている。丘陵の南には、中学校の敷地の一部と思われるが、平地より一段高い地形があり、ここが主郭部から続く馬出のような部分だったのだろう。主郭部の東には建部氏を祀った建部神社があり、次段を成していたと思われる。

 そのほかの藩のものとしては、公園の近くに林田藩関連で唯一の現存建築物かつ、兵庫県下でも唯一の藩校遺構である敬業館が残っていた。この建物は、小学校や村役場の役割を経て公民館として今も使われており、休日には見学も可能であるらしい。

梅園の端にある高台は櫓台跡か

 

最終訪問日:2017/10/30

 

 

訪れた時は、人もおらず閑散としていて、鄙びた感じの公園という感じでしたが、梅が多く植えられていたので、早春には見事な梅林を目当てに多く訪れて賑わいそうですね。

城下町自体はかなり小さいものの、当時の残り香が漂うような雰囲気もあって、こちらも良さげでした。